言葉は中国から渡来した言語ではない。
かつて私たちの遠い祖先は「ことば」には霊が宿り、
「ことば」は葉のように飛散するので、
「ことば」をとどめることは霊性の冒瀆と考えていた。
言葉を中国から渡来した文字でとどめることにしたときから
私たちの祖先は「ことば」が飛散することのないものと考え、
「ことば」が霊性をもつことを忘れ
言葉を日常の手段とした。
「ことば」は呪文でもなく、「ことば」で占うこともできない。
しかし、「ことば」には霊性が宿っている。
「ことば」は発せられて四方に飛散する。
飛散する「ことば」はヒトの魂に沁み入り、
時に傷つけ、時にやすらぎを与える。
だが、私たちが「ことば」の霊性を忘れて久しい、実に久しい。
【言葉について16 中村 稔 青士社より】
この詩を、大胆に「南無阿弥陀仏」視点で受け取るとどうなるでしょうか。
私なりに書いてみました(下記、青字)。
「南無阿弥陀仏」という言葉には、阿弥陀さまの命が込められている。その「南無阿弥陀仏」のはたらきは、三世十方にとどろいている。そして、誰ひとり漏れることなく、ひとりひとりに「南無阿弥陀仏」が沁み入っている。遅かれ早かれ、その(南無阿弥陀仏の)はたらきに気付かされるときがやってくる。そのとき、この上ないよろこびが自然と湧いてくるのだ。そのよろこびが具現化された言葉が、自ら(私の口から)発する「南無阿弥陀仏」という念仏である。つまり、阿弥陀さまと私は「南無阿弥陀仏」という言葉を媒体として会話をしている。そこに、なんとも言いようもないやすらぎを感じるのである。