手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私の死をマスクする(覆い隠す)新型コロナ

 このところ、新型コロナウイルスの話題で持ち切りです。なぜ、そこまで騒ぎ立てるのでしょうか。答えは簡単です。誰もが、根底に、「死」という問題を抱えているからです。新型コロナウイルスの恐怖を突き詰めていきますと「私が死ぬこと」に行き着きます。それは、無意識なのかもしれません。「私が死ぬ」という厳粛な事実は、新型コロナウイルスの恐怖にマスクされている(覆い隠されている)といってもよいでしょう。
 意識して、「私が生きること/私が死ぬこと」ついて考えていきたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さまと私

(親鸞)聖人の教えは、決して特別な学問的訓練を受けた人を対象としたものではなく、また特別の修行をしてはじめてわかるというようなものではありません。むしろふつうの世俗の生活をしている人たちのための教えです。鎌倉仏教の中でも、とくに法然上人や親鸞聖人の念仏門は、インド・中国・朝鮮・日本と伝来し展開してきた仏教を、実際に日本人の血となり肉となるものとして、日本人の独特の理解と解釈をとおして根づかせたという意味をもつわけで、その点から言えば、日本人にとって決して理解の困難なものではありません。その教えは、聖人の言葉に従って簡単に申しますと、本願の名号を聞信するということにつきます。光明無量・寿命無量という、無限の光と無限の生命をもった阿弥陀仏の一切の衆生を救済しようという願い、それが本願ですが、その具体的な人間へのはたらきかけ、よびかけが名号です。わが名をとなえる者を浄土へ迎えようという願をたて、それを南無阿弥陀仏という名号として成就された、その名号を私たちが聞いて本当に信ずる、それが本願の名号を聞信するということですから、その教えそのものは簡潔にして明快であり、決して特別な思索や訓練を必要としない。その教えを自分のはからいをすてて信ずる、あるいはそのよびかけに全面的に信順すればよいわけです。そのこと自体は必ずしも容易なことではありませんが、教えとしては極めてわかりやすい教えです。

【親鸞 教行信証を読む   石田慶和  響流書房より】

 

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浄土真宗の教えの肝となるところを、より分かり易く明確に説明されています。阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」という呼びかけに対し、私は「はい、ありがとうございます!」と応えるだけなのでした。阿弥陀さまと私は、「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉を通して会話をしているといってもよいでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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南無阿弥陀仏のはたらき

先に体に浸(し)み込んでるものの扉が後で開くような発見の喜びってありますよね。

(釈 徹宗)
【折々のことば 鷲田 清一 朝日新聞 2020年3月6日(金)付より】

 

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この言葉を
「南無阿弥陀仏の視点」からみますと、
「ホー、なるほど!」と受け取れます。
根底に
「南無阿弥陀仏のはたらき」を意識している言葉だと推察します。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200306081930j:plain 折々のことば  鷲田 清一  朝日新聞 2020年3月6日(金)付より

 

 

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胸に手ぇ当てて聞いて見よ

  「胸に手ぇ当てて聞いて見よ」は、真宗門徒のみならず世間一般でもよく使われていた言葉だが、最近はあまり耳にしない。
   たとえ、世界中の人間を騙しおおせても、自分の本心だけは騙しおおせるものではない。「胸に手を当て」れば、やはりふっと思い当たる後ろめたさや罪が、厚化粧の下にしっかりと隠れている。しかし、それは法を聞いてみなければ見えてこない。それで「聞いて」、わが身を「見よ」と。
   よくできた言葉で、特に真宗門徒に多くつかわれてきたこともうなずける。
【門徒ことば 三島清円 法蔵館 P127より】

 

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  「自分の胸に手を当てて、自分の心をみてみる」と浅ましい自分の心が見えてきます。体裁を演じる自分、仮面をかぶっている自分。親鸞聖人は、「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」と自戒されています。仏法を聞いていくと、そんな心が浮き彫りにさせられます。
  そんな私を、「無条件で救う」と断言された阿弥陀さま。私は、その阿弥陀さまの南無阿弥陀仏というお言葉(はたらき)に依るしかありませんでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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こぼれ出る真実信心

 如来の慈悲の結晶である名号は、手では受け取れません。耳で聞いて受け取るのです。受け取ると言えば能動的に感じられるかも知れませんが、耳は本来、能動的な器官で、自分の意志とは 無関係に嫌でも聞こえてくるものです。
 耳から入った名号は、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩で濁りきった私の心のなかに、根を下ろします。煩悩のどぶは、名号にとって極めて敵地であります。どぶを養分としながら、濁りに汚染されない信心の華を咲かせます。また、この華のよい匂いを周辺に漂わせます。「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の称名は、信心の華からこぼれ出る匂いなのです。名号はただの六文字ですが、それは如来の真実心ですから、底知れない煩悩のなかに入って、それを信心に変えてしまうのです。
 阿弥陀如来の慈悲である名号は、聞くこと以外に受け取る方法はありません。聞くことによって、誰にでも受け取ることができます。学問の有無、社会的地位の高低、年齢の多少に関わらず、誰でも聞くことができ、心に大きな安らぎを得ることができるのです。
【やさしい真宗講座-み教えに生きる-  霊山勝海 本願寺出版 P74より】

 

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南無阿弥陀仏のはたらきに垣根はありません。
ですので、
いつでも・どこでも・誰でも 南無阿弥陀仏のはたらきにふれる(気付かされる)ことができます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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お仏壇(おぶつだん) 金子みすゞの詩

お背戸(せど)でもいだ橙(だいだい)も、
町のみやげの花菓子も、
仏さまのをあげなけりや、
私たちにはとれないの。

だけど、やさしい仏さま、
じきにみんなに下さるの。
だから私はていねいに、
両手かさねていただくの。

家(うち)にやお庭はないけれど、
お仏壇にはいつだつて、
きれいな花が咲いてるの。
それでうち中あかるいの。

そしてやさしい仏さま、
それも私にくださるの。
だけどこぼれた花びらを、
踏んだりしてはいけないの。

朝と晩とにおばあさま、
いつもお灯明(あかり)あげるのよ。
なかはすつかり黄金(きん)だから、
御殿(ごてん)のように、かがやくの。

朝と晩とに忘れずに、
私もお礼をあげるのよ。
そしてそのとき思うのよ、
いちんち忘れていたことを。

忘れていても、仏さま、
いつもみていてくださるの。
だから、私はそういうの、
「ありがと、ありがと、仏さま。」

黄金(きん)の御殿のようだけど、
 これは、ちいさな御門(ごもん)なの。
 いつも私がいい子なら、
いつか通ってゆけるのよ。
【空のかあさま 金子みすゞ全集・Ⅱ JULA P233~P235より】
※一部、現代語にしました

 

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仏さま(阿弥陀さま)は、いつも私をみていてくれます。私が、仏さま(阿弥陀さま)のことを忘れていようとも。仏さま(阿弥陀さま)の慈悲の心を感受しての生活は、根底に安心があります。仏さま(阿弥陀さま)という拠りどころがある人生は、「人間に生まれてよかったぁ~」という満足感といますか充実感があります。まさに、ありがと、ありがと、仏さま(阿弥陀さま)、です。
この詩(お仏壇)もそのように感じて謳った詩なのでしょう。

 

f:id:tarou310:20190714124157j:plain令和元年7月14日撮影(金子みすゞ記念館:山口県長門市)

 

 

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