手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

本願をたのむ

 アミダ仏の救いの前には、人間の善悪の行為は全く無関係であることを示したものが、「業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのむ」という語でした。第一条に「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」とある通りです。人間の善悪をはるかに超えて、それを包摂する広大なるはたらきである「誓願不思議」によって救われることを信知(うなずく)する世界が「本願をたのむ」というものでした。
 私は、「本願をたのむ」ということは、他の一切をたのみとしないで生きていける「信心」の世界だと領解しています。人間の善をたよりとせず、自己の悪についても卑屈にならず、自己の能力も力量も一切必要としない、いや、それらが全く救いの役にはたたないと信知して、アミダ仏の広大無辺の世界に生きるのが、他力信心の行者の生き方です。そこには自己の解放があります。善にしばられて苦しむこともなく、悪にとらわれて悩むこともなく、生と死にさえ呪縛されない広い世界を歩みことができるのです。親鸞聖人はこの人生道を「正定聚」(「和讃」等)(不退転、あと戻りすることのない人生)と呼んで、信の世界と呼びました。それが、「如来とひとし」(同)い人生を生きる念仏者のすがたです。
歎異抄を語る 下 山崎龍明 NHK出版 P141より】



「うなずく」という表現いいですね。
なもあみだぶつ なもあみだぶつ