宗教的な喜びといっても人さまざまです。私は世の中がパッと明るくなるような喜びの感覚はもてません。しかし、今まで知らないできた人生を気づかせてもらったと感じることがあります。阿弥陀如来のおこころをいただいたという喜びです。
それは必ずしも華々しい喜びの体験というわけではありません。もっとしみじみとにじみ出てくるものです。華々しい体験ができればそれはそれで素晴らしいと思うのですが、そうならないからといって信心がないということにはなりません。
譬えていえば、カーテンを閉めているときには暗くて気づかなかったほこりに、カーテンを開けて日の光によって気づかされるようなものです。
いくら探し求めても、自分一人の力だけでは気づくのは難しい。気づくというよりも、気づかされる。この「受動態である」という点が大事です。反対方向から見れば、気づかしめるという「使役動詞である」ということが大事です。
すべていただいて生きている、自分は生かされているという気づきです。生きていること自体がいただきものと気づかされるのです。そのためには、人間は死ぬものだという有限性の自覚が大事です。
現代人は人生とは自分の努力の結晶だと思っています。子どもの頃から努力しなさいと言われて育っているので、成果はすべて自分の努力のおかげだと思いがちです。しかしそれは一人合点です。そうではなくて、何事も「〜される」という視点が大切なのです。気づかされ、生かされる。いただきものである自分であることから凡夫の自覚も出てきます。
【愚の力 大谷光真 文春新書 ※日の光の中のほこり(P88,P89)より】
ここで書かれていること、同感です。
阿弥陀さまと私の関係は、まさにここで言われている
「気づかしめる(使役動詞である)」と「気づかされる(受動態である)」です。
あくまでも、送り手は阿弥陀さま。受け手は私なのです。