手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗の他力の立場

船に載せられた石は、いかに沈まんとしても沈みことのでき得ないことになっている。この面からいえば変ということもできる。しかるに石そのものの重量が減じたということでもなく、水につけると沈む性格が変化したということではない。この面では不変ということがいえる。沈むもののまま船に支えられて沈まれないことになっているのは、石そのもののはたらきではなく、船そのもののはたらきによるのである。このような立場を法徳といわれ、ここにすくいとさとりの立場が明らかにされるのである。蓮師の時代には、最近の学者によると、一遍上人時宗が全国的に勢力があったといわれる。すでに宗名の章にも帖外には一遍一向といわれ、時宗との混同も考えられたようである。
一遍上人の歌に「となふればわれもほとけもなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とある。この歌は浄土真宗との接点と考えられるであろう。すなわち「われもほとけもなかりけり」という、はからいや固執せるものの否定においては通ずるものも考えられる。しかし、われもほとけもない無分別の場にたつというのは、悟の世界をいうのである。煩悩、執着、我執をすべて否定した悟の世界をいわれるのである。それゆえ、一遍上人の世界には二種深信はあり得ない。
蓮如上人のことばP35−P36 稲城選恵和上 法蔵館より】


【手品師コメント】
以前のコメント(wattoさん)で、一遍上人の「となふればわれもほとけもなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という詩の紹介がありました。
本日、「蓮如上人のことば」というご著書を読ませて頂いて、その言葉について書かれてあったので紹介させて頂きました。浄土真宗の他力の立場は、一遍上人の他力観とは全く異なることを教えて頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/searchdiary?word=%BC%AB%CA%AC%BC%AB%BF%C8%A4%CB&type=detail