手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聴聞ということ

聴聞ということは、親心の全部が、あらわれてくださる。親心の全体が私の上にあらわれてくださる。阿弥陀さまのお心が、私に来てくださるのです。これを聴聞というのです。こっちがしっかり聞くということではないのです。


それはなぜであるか、と申しますと、阿弥陀さまの、お正覚の全体が、私を救うためでございます。そのお覚りの全体が、私をたすけるためでございます。阿弥陀さま全部が、私をたすけるためでございます。阿弥陀さまがおいでるのは、私を「たすける」のお姿です。
阿弥陀さまの正覚のそのままが、私を救うためであります。私をたすけるためでございます。


阿弥陀さまのお姿は、「お前をたすけることができるぞよ」ということをおっしゃっておいでるのです。「必ずたすけてやるぞよ」というお姿であります。それを反対に、「こっちがしっかり聞かねばいけん」、「聞いたら助かる」ぐらいに思うておるのは嘘です。それは反対なのであり、阿弥陀さまの方が命がけなのであります。
【まことの真宗に遇う(加茂仰順和上随聞記)P83,P84 蓮下義昭[編者] 探究社より】


【手品師コメント】
主語は、絶えず「阿弥陀さまが」なんですね。「私が」が、入る込む余地は微塵もありません。阿弥陀さまに「ただただおまかせさせていただく」これしかありませんし、これだけなんですね。