2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧
信心を語るうえで、「ハッキリする」という言い回しは、どうもあわないように思います。 どうしても「ハッキリする」に固執してしまうからです。 「ハッキリする」に固執しますと、「ハッキリさせよう」と自分中心に傾いていくように思えてなりません。こう…
阿弥陀仏のご本願を 親鸞聖人のみ教えを 浄土真宗を 正しく伝えておられる方は多くおられます。 善知識は、一人だけではありません。
遠慮なしに、なむあみだぶつ ありがたいことです。
先送り、いつまでたっても先送り いったい、どこまで先送り?!
いま救う!と阿弥陀さま どうも!とこの私
阿弥陀さまから信心を賜るといっても、なにかモノを頂くのではありません。 もし、モノであったならば守らねばなりません。壊れないように、絶えず気にかけねば なりません。それは自力です。疲れます。落ち着きません。不安です。 信心はそんなモノではない…
理屈なしに、なむあみだぶつ ありがたいことです。
人生、足したり引いたりする必要はありません。人生そのままのお救いです。 南無阿弥陀仏(ありがとうございました!)と頭をさげることしかできません。
阿弥陀さまは、この今も、ひとりひとりにピッタリ寄り添ってくだされておられます。 この今も、私の人生となって、呼びかけ、育てられておられます。
人生は無常です。 だから、阿弥陀さまは、「早く救われてください!早く救われてください!」と大きなこえで、この今も呼びかけておられます。
上り坂、下り坂、まさか。 いつ何が起こるか分かりません。
無有代者(むうだいしゃ)。 大無量寿経にあるお言葉だそうです。 苦しんでいる人がいても、せいぜい、声をかけて慰めてあげることしかできません。その人の苦しみを代わってあげることはできません。ひとりひとりのしのぎです。 しのぎといっても、自分の力…
21エモン・・・
阿弥陀さまは、私の人生となって一人一人についてくだされている
阿弥陀さまは、迷いのまま、罪悪深重のまま、そのまま抱きかかえておられる。 ですので、私はつかまなくてよいのですし、つかむ必要はありません。 そこには、よろこびと安心があります。
いのちは阿弥陀さまそのもの。 実に深いことばだと思います。
私のいのちといえば、自分がいのちを所有しているというニュアンスがあります。 果たして、いのちを所有することなどできるでしょうか? よくよく考えてみますと、自分が意識して、この時代に、人間として、この両親から、男として、日本に、生まれてきたの…
ぼく、ドラえもん・・・(冷汗)
本日、築地本願寺(常例布教)にて聴聞させて頂きました【森 哲人 師 福岡県:西教寺】。 以下、印象に残ったところです。 ※日常生活の上でいろいろな出来事を通して仏さまのご恩をよろこばせて頂く。 ※御信心をいただくとは、南無阿弥陀仏のおはたらきを聞…
自覚とは、あくまでも私側にたった自分中心のことばだと思います。 本願力回向のお救いをいう場合、自覚ということばは合わないように思います。
阿弥陀さまのお救いは、土俵上で頑なにひとり相撲をとっているようなものではありません。がっちり、阿弥陀さまに向きあわせて頂かねばなりません。 一人相撲 【意味】一人で虚しく頑張ってあれこれ行動すること。他者を無視して動き、良くない結果をもたら…
おせち料理をたらふく食べて、いま腹いっぱいになっているかどうかを確かめることはありません。そんなことを確かめること自体、無意味です。 同様に、阿弥陀さまより信心を賜った者が、いま救われているかどうか詮索することはあり得ませんし、その必要はあ…
※はじめ人間ギャートルズより
信心をとるということは「自力の心をすてて一心に弥陀をたのむ」のであり、自らのはからいをすてるのである。自らの救われる救われないという心配は、すべて弥陀の仕事である。本願の受持となっているのである。しかも自力の心をすてることは、自らにおいて…
善知識だのみは、すでに根本仏教の上でも否定されていることが明らかに知られる。多くの宗教のごとく仏教は教祖宗教ではない。カリスマ的存在を是認しないところにその特色がある。四依(しえ)の中にも、はじめに「人に依らずして法に依れ」とある。 【蓮如…
善知識の分限と領域を誤ると善知識はカリスマ的存在になり、教祖化する。それゆえ、その分限と領域を明らかにして、「善知識の能といふは一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしとひとをすすむるばかりなり」とある。 【蓮如上人のことばP45 稲城選恵和上 法…