※第一願の成就文
「その国土には、須弥山(しゅみせん)および金剛鉄囲(こんごうてつち)、一切の諸山(しょせん)なく、また大海・小海・谿渠(けいご )・井谷(しょうこく)なし。仏の神力(じんりき)をもってのゆえに、見んと欲せばすなわち現ず。また、地獄・餓鬼・畜生の諸難の悪趣(あくしゅ)なし。また、四時の春・秋・冬・夏なく、寒からず熱からず、常に和(やわ)ぎ調(ととの)い適す。〈中略〉三塗(さんず)・苦難の名あることなく、ただ自然(じねん)の快楽(けらく)の音(こえ)のみあり。このゆえに、その国を名づけて、安楽(あんらく)という」(岩波版169〜180頁)
なお第一願の成就文に関連して一言。文のなかで、浄土では山がなく海もなく谷などもなく、平板だと記述されているが、「見たい」と思えば、たちまち山や海などが現れる、とある。読者のなかには、いかにも幼稚な感じをいだかれるであろうが、それは仏教特有の真理の表現と理解すべきことと思われる。
なぜならば、仏教の真理は、元来は人間の思惟やまして感覚を超越したものだが、もしそれに留まるならば、仏教は人間とは没交渉となる。その真理は人間を超越しているが、しかし、人間に深く関わるところに仏教の命がある。だから、浄土の記述も、人間の感覚や想像力に訴える方法でなされているのだ。
感覚的快楽を追求して生きている人間には、理想的世界は感覚的叙述によって示すのが早道というもの。ただ、それで終わっては、また人間に妥協したことになってしまう。そこで、人間の感覚的世界の虚妄性を教えるために、人間が実在すると考えていることがら自体が虚妄で、いわば意識の産物に過ぎないことを示唆するために、このような記述がなされていると思われる。
仏教が手にしている真理には、真理そのものの姿(それを見るのは仏のみ)と、それが人間に働きかけている姿(人間に理解できる真理)の二面性が、いつも経典の表現の背後にあることに注意する必要がある。
【四十八願論 P 28、29 阿満 利麿 連続無窮の会より】
なるほどなぁー、と思いました。「経典の表現」の二面性に留意しながら勉強したい、と思います。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏