手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

はやいもので13年目(手品師ブログ)

 

 今は亡き「あほうどりさん」に勧められて始めたこのブログも13年目となりました。開始日は、2010年3月22日となっています(驚)。そして、当然「おやじ化」も進んでいます(笑)。この期間もいろいろな出来事がありました。多くの出合いもありましたが、悲しい別れもたくさんありました。この世界は、出会いと別れの繰り返しです。無常の世界であります。やはり、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人生でなければなりません。そこには、人間に生まれてきた本当の幸せがあるのでした。

 引き続き、趣味感覚で、綴っていきます(笑)。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

ひとりでも多くの人に

 

 私の1日は、新聞3紙(地元紙、読売、毎日)に目を通すことから始まります。毎日約4時間、新聞からいろいろな情報を得ています。その中でも、読者投稿欄は好んで読んでいます。自分の思いや意見をどのように言葉(文章)としてまとめているか、とても参考になるからです。

 (読者投稿欄を)読んでいますと、「残りの人生、楽しく充実して生きていきたい!」といった内容の投稿をよく目にします。そのような投稿を読むと、なんともいえない虚無感をいだいてしまうのです。特に最近、そういう思いが強くなったような気がします。身近な人との別れ(死別)を経験する機会が多くなったからなのでしょうか。

 根底に安心がないと、本当の(人生の)充実はない、と思います。あらためて、「南無阿弥陀仏」があって本当によかったなぁー、と安堵する私です。ひとりでも多くの人に、「浄土真宗の教え」を聞いてほしい、と強く思うのです。

仏法ひろまれ 響け 届け 

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

仏教に親しみを持つ最初の一歩

 

京都新聞 令和4年6月9日(木)付

 

「クロスワードパズル」が、仏教や歎異抄に関心を持つきっかけになることもあるでしょう。(仏教を聞くようになる)入口は、いろいろあるのだろうなぁ~、と今回の記事を読んで思いました。

Kさん、情報ありがとうございました!

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

仏教は論理というものを極めて大事にしている宗教

 

 仏教は論理というものを極めて大事にしている宗教です。ひとつひとつ納得して次へ進むという、そういう道筋をたどるのが仏教であって、「わけが分からんことを信じ込め」ということは仏教では一才ありません。

 「阿弥陀仏の本願」が何だかわからなくてもいいと、とにかく、阿弥陀仏というありがたい存在があるのだから、それを頭から信じ込めば自分は救われると、こういうふうな思い込みに走ることが多いです。決してそんなことはありません。そんなことを言うとしたらそれは仏教ではない、ということです。

【歎異抄にであう〜無宗教からの扉〜 第2回 念仏とはなにか  阿満利麿 Eテレ 5月15日(日)放送冒頭より】

 

仏教は、理路整然とした教えです。ですので、仏教の話を聞いていきますと「なるほどなぁ〜」と納得させられる(知らされる)時が必ずきます。

「阿弥陀仏というありがたい存在があるのだから、それを頭から信じ込めば自分は救われるのだ!」と、自分をそのような状況や状態にもっていく必要はありませんし、そんなことにトライしてもまったく意味がありません。自分勝手な思い込みや計らいは不要です。阿弥陀さまに依りたいものです。私は、あくまでも受け手(阿弥陀さま⇒わたし)であることをあらためて確認しました。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

「経典の表現」の二面性

 

※第一願の成就文

「その国土には、須弥山(しゅみせん)および金剛鉄囲(こんごうてつち)、一切の諸山(しょせん)なく、また大海・小海・谿渠(けいご )・井谷(しょうこく)なし。仏の神力(じんりき)をもってのゆえに、見んと欲せばすなわち現ず。また、地獄・餓鬼・畜生の諸難の悪趣(あくしゅ)なし。また、四時の春・秋・冬・夏なく、寒からず熱からず、常に和(やわ)ぎ調(ととの)い適す。〈中略〉三塗(さんず)・苦難の名あることなく、ただ自然(じねん)の快楽(けらく)の音(こえ)のみあり。このゆえに、その国を名づけて、安楽(あんらく)という」(岩波版169180頁)

 

 なお第一願の成就文に関連して一言。文のなかで、浄土では山がなく海もなく谷などもなく、平板だと記述されているが、「見たい」と思えば、たちまち山や海などが現れる、とある。読者のなかには、いかにも幼稚な感じをいだかれるであろうが、それは仏教特有の真理の表現と理解すべきことと思われる。

 なぜならば、仏教の真理は、元来は人間の思惟やまして感覚を超越したものだが、もしそれに留まるならば、仏教は人間とは没交渉となる。その真理は人間を超越しているが、しかし、人間に深く関わるところに仏教の命がある。だから、浄土の記述も、人間の感覚や想像力に訴える方法でなされているのだ。

 感覚的快楽を追求して生きている人間には、理想的世界は感覚的叙述によって示すのが早道というもの。ただ、それで終わっては、また人間に妥協したことになってしまう。そこで、人間の感覚的世界の虚妄性を教えるために、人間が実在すると考えていることがら自体が虚妄で、いわば意識の産物に過ぎないことを示唆するために、このような記述がなされていると思われる。

 仏教が手にしている真理には、真理そのものの姿(それを見るのは仏のみ)と、それが人間に働きかけている姿(人間に理解できる真理)の二面性が、いつも経典の表現の背後にあることに注意する必要がある。

【四十八願論 P 2829 阿満 利麿 連続無窮の会より】

 

なるほどなぁー、と思いました。「経典の表現」の二面性に留意しながら勉強したい、と思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

 

 

ちょっと安心 ~他力本願という言葉~

 

他力本願(たりきほんがん)

【注】他の力で当てにする意味の比喩表現で使わない。

【注】浄土門で阿弥陀仏の本願によって救済されるの意。比喩の他の力を当てにする意味では使わない。

【記者ハンドブック新聞用字用語集 第14版 共同通信社より】

 

記者ハンドブックでは、「他力本願」という言葉は、本来の意味で、正確に使用することを明記しています。ですので、紙面では「他力本願」の誤用はされないでしょう。ホッとしている私です〜。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏