手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

善人(歎異抄第3条)とは(その1)

  「善人なおもて往生をとぐ 、いわんや悪人をや 」(意味:善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。)これは、歎異抄第3条の冒頭の言葉です。一般的に、悪人正機説として有名です。親鸞の教え、つまり、浄土真宗の教えを鋭い切り口で表現されています。また、誤解が生じやすい箇所でもあります。

  以下、歎異抄第3条でいうところの「善人」について、分かりやすく説明されていますので紹介します。

『歎異抄 』では善人のことを 「自力作善のひと 」といいます 。「自力作善のひと」とは 、どういう人のことでしょうか 。親鸞聖人は 「自力というは 、わがみをたのみ 、わがこころをたのむ 、わがちからをはげみ 、わがさまざまの善根をたのむひとなり 」といっています 。だから、「自力作善のひと」とは 、わがさまざまの善根 、つまり、自分の能力であるとか、財産であるとか 、教養であるとか 、地位であるとか 、名誉であるとか 、権力であるとか 、学歴であるとかの人生経験を絶対的にたよりにして 、どこまでも自分を正当化する人のことです 。

【歎異抄に学ぶ  尾畑文正  響流書房より】

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  「自力作善のひと」とは、簡単にいいますと、『自分に自信がある人』ということです。歎異抄でいうところの、「善人」です。世間一般的に「善人」といいますと、尊敬され注目される対象です。それは、人間の視点、つまり、倫理・道徳の視点でみればそうなのですが。。。

  阿弥陀さまの視点は、倫理・道徳では推し測ることはできません。人智を超えていますので。往生ということからいいますと、善人より悪人です。いうならば、自分の力ではどうにもならないと阿弥陀さまに委ねる人を悪人といいます。善人(自分に自信がある人)は、なかなか南無阿弥陀仏に向くことはできません。それは、自分に自信があるから、です。自分の力でなんとかなると思っているから、です。

  ここで、歎異抄第3条の「善人、悪人」を文字通り、つまり、倫理・道徳的な視点で解釈してしまいますと、意味が全く分からなくなってしまいます。

  阿弥陀さま視点で、歎異抄第3条を紐解くとスッキリします。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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私の自信

   人生、生きていく上で、自分に自信がないと生きていけません。「私の自信」は、生きていく上で、とても大事なことだと思います。自意識過剰は別としまして(笑)。

  しかしながら、南無阿弥陀仏のはたらきに気付く、という点からいいますと、「私の自信」というものはハードルになっているように思います。

  南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれて生きている状況下、そのはたらきに気付かされないというのは、「私の自信」に頼っているからではないでしょうか。仏教的な表現でいいますと、執着心にとらわれている、ということです。

  まとめますと、

生きていく上で「私の自信」は大切です。生きる原動力にもなります。しかしながら、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるという点では逆にハードルになっているのではないでしょうか。そういう意味で考えてみますとすと、「私の自信」は、「阿弥陀さまの救い」と「私の人生」を語る上で相反するものといえるでしょう。なかなか難しいところです。

 おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏

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言葉の力 ※B級手品師(東奥日報&日常編)ブログのご紹介

私のテーマは「言葉で伝える」ことです。

 昨年より、そのひとつの舞台を、明鏡欄(地元紙:東奥日報夕刊)としました。このブログでも実際掲載された3つの記事を紹介いたしました。

 今回、B級手品師(東奥日報&日常編)という姉妹ブログ(明鏡欄投稿に特化したブログ)を立ち上げましたので、この場を借りて紹介させて頂きます。

 引き続き「言葉の力」に留意して、いろいろな切り口の内容で投稿していきたい、と考えています。

 といいましても、投稿した記事がすべて採用されることはありません。また、投稿したい話題等がなければ投稿もできません。ですので、投稿関連だけに限らず、日常的な話題も折り交ぜていく予定です~。

どうぞ、宜しくお願い致します。

B級手品師(東奥日報&日常編)

http://btejina.hatenadiary.com/

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「NO ××~、NO LIFE.」

   とある大型レコード店のコピーに「NO MUSIC,NO LIFE.」というものがあります。これが胸に入ったTシャツを着た人を見かけることもあります。「音楽がなければ人生じゃない」あるいは「音楽なしでは生きていけない」といった意味になるでしょうか。

 私は学生に「この『MUSIC』のところを、別のものに代えてみる」という課題をやってもらうことがあります。

 人によって、いろいろな言葉が入るはずです。

 部活をやっている人なら「NO SOCCER,NO LIFE.」。

 私はテレビを見るのがとても好きなので「NO TV,NO LIFE.」。

 とにかくワインを愛しているなら、「NO WINE,NO LIFE.」。

 これさえあれば人生OK、他には何もいらない。そういうものがあると、生きがいが生まれてきます。

【50歳からの孤独入門 「NO××~、NO LIFE.」 齋藤 孝 朝日新聞出版 P122、P123より】

 

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私の場合は、「NO ××~、NO LIFE.」のところの「××~」は、「南無阿弥陀仏」となります。言い換えますと、「南無阿弥陀仏がなければ人生じゃない」「南無阿弥陀仏なしでは生きていけない」となります。

皆さんは、いかがでしょうか。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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立春

暦では立春ですが、こちらはまだまだ雪かき期間中です。私自身、過去を振り返る機会が多い歳となりました。「あの時、こうしておけばよかったなぁ~」と真剣に思うことは、殆どありません。それは、いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせられていることが、そういう心境といいますか、こういう状況にさせているのだと勝手に思っています(笑)。
おかげさまで  立春も  南無阿弥陀仏

 

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誕生日

節分でもある本日は、私の誕生日です。オヤジ期を生きている私としてはあまり嬉しくありません。人生50年といわれた時代でしたら、もう死んでいるかもしれません。1日、1日、浄土に近づいていますのでありがたいはずなのですが、素直に喜べないです。煩悩のなせる業(わざ)なのですかね。

おかげさまで  誕生日も  南無阿弥陀仏

 

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他力

電気のスイッチは 、押すだけで明るくなる 。用いればよい 。電気を発見した苦労を自分がやってみる必要はない。宗祖様の教えを後からゆく事である 。聞くとは随うことで直である、受ける事である。南無阿弥陀仏は「スイッチ 」をひねることもいらぬ。呼びずめである。

【松並松五郎 念佛語録より】

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7年前、このプログで紹介しました「ただスイッチを押して画面を見る」と重なります。言葉は違えども言っていることは同じです。いうならば、南無阿弥陀仏の人は、南無阿弥陀仏で繋がるということです。不思議なようですが、当たり前のことです。

おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

ただスイッチを押して画面を見る(大峯 顕 師)

https://tarou310.hatenablog.com/entry/20110714/1310648370

 

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