手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

人生とは

 突然ですが、この図はどう見えますか?



 ちなみに、私は、ただの図形にしかみえませんでした(笑)。 
(黒に注目するとただの図形、白に注目すると「LIFE」)


 この図をみていまして、過去に紹介した「LIFE」について思い出しましたので再掲載いたします。人生について、うまく表現されています。
当時(8年前)は、「すねいるCDシリーズ」を聞きまくり「文字おこし」をしていました(驚)。
当たり前ですが、8年前も今も「南無阿弥陀仏」においては全くブレません。
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、「一心同体 南無阿弥陀仏」なのです。この今も、この先も・・・。


<以下、再掲載>
 アメリカに「LIFE」という雑誌が、かってありまして、これが創立10周年の記念の時にLIFEとは何か?という懸賞募集をしたそうです。これに回答をよせて、たくさんの応募者の中から、アメリカの知性と呼ばれる人たちが選択して、第1等で入賞したのは、アメリカに移民した遠藤という日本人であったそうです。
遠藤さんという人は、LIFE L・I・F・Eという4つの文字から組み立てられた文字をバラバラにしまして、L・I・F・Eの4つの文字から2つを選びまして、IとF、Ifという言葉を取りだすんです。LIFEの4分の2はIfである。すなわち、ここではLIFEっていうのを人生とよんでいるのだと思います。人生の半分は、もしかしたら、もしかしたら、という儚い夢を見続けていくのが人生であろう。所詮、夢であって本物の確かなものをみるのではない。という意味がその中にあるんだと思います。
 それから、LIFEっていう4つの文字からL・I・Eという3つの文字を選んで【ライ】とよびましてLIFEの4分の3はlieである。とこう答えたんです。
lieというのはウソという字でありまして、人生の4分の3はウソだというのであります。ここで、ウソというのは「あいつは嘘つきだ。あいつに金を貸したけれども、借りていないといって返さない」というような意味のウソとは違うと思うんです。
 けれども、この遠藤さんという人は、人生は夢であり、人生はウソであるという回答をしまして、これをアメリカの学者あるいは知識人たちがたくさん集まった選考会の中でこんな素晴らしい回答はないと、この第1等に選ばれたことにですね、私は非常に驚きを感じるのであります。
 ですから、常識人の目では人生、楽しい、毎日毎日生きていることが、これが真の世界であるかの如く生きているわけです。けれども、真剣に人生をみようとすれば、やはり、その人生の底に、畢竟依(ひっきょうえ)でない、究極的にあてにすることのできない、所詮それは仮のものでしかない、無常のものでしかない、偽りでしかありえない、というそういう深い歎きのようなものがあるんだと思うんですね。そういう思いと同時に成立するのが「念仏のみぞまことにておわします」という言葉なんだと思います。
歎異抄に探る 念仏のみぞ 後序(第二,三,四節) 霊山勝海  すねいるCDより】


【手品師コメント】
人生というものをLIFEという英単語からうまく敷衍(ふえん)していると思います。おもしろい表現ですね。
「念仏のみぞまこと」非常に力強いお言葉です。本当にたよりになるものは、南無阿弥陀仏しかないことをあらためて味わいさせて頂きました。
南無阿弥陀仏
※2010年12月22日 「念仏のみぞまこと」より
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20101222

広い視点で

 世界はひとつですが、世界地図をみてみますと色々あるようです。例えば、日常的に使用されているかどうかは定かではありませんが、オーストラリア(南半球)を中心とした世界地図は、私たちが普段使用している世界地図と上下が逆転しています。かなり違和感があります(笑)。
 なにが言いたいかといいますと、わたし(自分)が何処に住んでいるかによって世界地図の形も変わってくるということです。つまり、自分中心の目線だけで物事をみていますと本来の大きなものがみえなくなってしまいがちです。一歩引いた目線で物事を見極めていくことは大事なことではないでしょうか。
 南無阿弥陀仏も然り。「私は(自分は)」だけに固執するのではなく、『阿弥陀さまは』どういう目線なのか、といった一歩引いた視点で(自分を)みていくことは非常に大事なことだと思います。自分の都合ばかりに執着していては何の進展もありません。


おかげさまで 今年も 南無阿弥陀仏


自己顕示欲

南無阿弥陀仏』のことを多くの方に知ってもらいたい、という思いがある中で、
このブログを続けていられる原動力のひとつは自己顕示欲なのかなぁ〜、と思っているこの頃です。「雑毒の善」ではありますが、されど「雑毒の善」です。自分の都合がよいように勝手に解釈しています(笑)。引き続き、『南無阿弥陀仏』のことについて受信発信していきたい、と考えています。阿弥陀さまと共に・・・。


仏法弘まれ 響け 届け 
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

言葉は語る


平成最後の年末となりました。
私にとって、この1年は、「言葉の力」を実感した年でもありました。日常生活において、いかに言葉(文字)を用いて相手に伝えるか、をテーマとしてきました。「言葉は語る」といわれた大峯 顕(おおみね あきら) 師の言葉が心に響きます。そして、「生きることについて考えること」は日課となっています。表向きは、バカをやっているオヤジですが、内面は意外と真面目なのです(笑)。人生百年時代といわれていますが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かずして終えていく人生はただ虚しいだけです。「生きること」について真正面から考えていきたいものです。幸いにして、「生きること」の回答はすでに用意されています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


「世間の人は」と言って、一段上にいた私

 以前のわたしはといいますと、世間一般人とは違う選ばれし者だと思っていました。しかしながら、それは大きな間違いだったのです。阿弥陀さまからみれば、みな同じ者でした。わたしもその辺の世間一般人のひとりであったのです。そんなことは当たり前のことなのですが(笑)。
 いまは、以前と違って一歩引いた視点で物事を考えていく余裕があります。阿弥陀さまはどういう思いなのだろうか、といった切り口で物事を考えていける生活に喜びを感じているこの頃です。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

生死問題を考える(生死一如)

 殊に人間には、生の欲求と必然の死の襲来との矛盾に対する解決、また生と生との願いの衝突に対する解決が必要となってきます。人間の必然的な欲求のさしとめられたところに、ある何ものかが本能的に出にゃならん。それが智慧であります。智慧の光に照らさなければこの荒魂の発動する世界のおさまりがつかぬ。また無限の欲求としての生命が光によって限られているこの矛盾の解決がつかぬ。人生は一面矛盾です。生命と死の矛盾です。それが智慧の光に照らされて始めて生と死というものに対する解決が与えられ、人生というものがわかるのであります。
 清沢先生が「生のみが我等にあらず、死も亦我等なり」と仰せられたお言葉がよく味わわれます。生きていることだけが自分ではない。死ぬことも自分である。それを我々は生きていることだけを見て自分の死をよそに考えておるから悩みが出てくるのであります。生も死も共に自分の姿だ。
正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P40より】



人生、最大の悩みは、
「死にたくないけど死んでいかなければならない現実があるということ」です。ここでは、その悩みを解決するには、「智慧の光に照らされて始めて、その(生死問題の)解決が与えられる」とあります。
換言しますと、
『いま・ここで・わたしに、はたらいている南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされることによって私の生死問題は解決する』ということです。
臭い物には蓋をする、のではなく、その蓋をあけて真正面から私の生死問題に向き合いたいものです。
なぜなら、その解決策はすでにあるのですから。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏