手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

死なれたらよいかな

吉兵衛は人生の最大時が解決した当時のことを回顧して、更に曰く
「西方寺様に始めて御目にかかって、一間ほど手前から申し上げたところが、『傍へ』と仰せ下された。よってジリジリ膝ですり寄って、日頃の思いを聞いていただいた。
(吉兵衛:)『私は死んで行けませぬ』と申し上げた時に
(西方寺様:)『死なれたらよいかな』と仰せられた。
その後で『御領解文通りかえ』といいながら、御自分の事は少しも仰せられずに、御領解文を差出して、お調べ下された。その時、此の御方こそ私の御知識であると、一ぺんに眼がついたデ」「私の御知識はこんな者の聞き心まで拂って下されたデ、云々」
と、吉兵衛はいっておる。
【信者吉兵衛  稲垣瑞劔 百華苑 P37,P38 より】


この部分を、著者である稲垣瑞劔 師は、以下のように解説されておられます。


「死なれたらよいかな」の西方寺様の一言は、まことに千釣(きん)の重さがある。この一言は説明ではない、説教ではない。文字の解釈でもない。
吉兵衛は「私は死んで行けませぬ」と、久遠劫来の自力疑心の総決算を打出して、同時に無明長夜の闇を一時に晴らさんものと思い、また生死流転の中にあって、浮生一旦の生命は、いつ如何なる道の草の上に落ちようとも、如何に苦しき世渡りの末、のたれ死にしようとも、かつえ死にしようとも、大悲大智の本願力の大生命を生命として真に生きようとする「金剛の志」の結晶が、「私は死んで行けませぬ」の一語となって、西方寺様の面前に提出せられたのであった。
〈 中 略 〉
西方寺様は、吉兵衛の質問に対して「死なれたらよいかな」といわれた。その言葉はやさしく、声も静かで、小さな声であったろうと思うが、西方寺様の此の一言は、理解も無理解も、分別も無分別も、智慧も愚痴も、善も悪も、安心も不安心も、思念も不思念も、修行も浄戒も、正観も邪観も、有念も無念も、臨終も平常も、記憶も忘却も、何もかも、人間一切の行いも、思いも、「はからい」も、すべて、如来本願力の前に薙倒(なぎたお)されて、無価値の「0点」にして仕舞われた霹靂(へきれき)の大音聲(だいおんじょう)である。(※一部、旧字を変換)
(※同書P38〜P41 より抜粋)



吉兵衛さんの
『私は死んで行けませぬ』という言葉に対し
西方寺様の
『死なれたらよいかな』という回答。
非常に短いやりとりの中に、とても深い意味が込められています。非常に味わい深いやりとりです。
この2人も凄いですが、このやりとりを、このように解説されておられる稲垣瑞劔という人も凄いですね。


吉兵衛さん 「妙好人 物種吉兵衛語録」より