手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

罪悪深重の業

【原 文】
聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひし
歎異抄(後序) 現代語訳付 梯實圓 解説P98 本願寺出版社より】
【本紹介 ↓ 】
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20101210#1291996984


【現代語訳】
親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、
阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。
歎異抄(後序) 現代語訳付 梯實圓 解説P104 本願寺出版社より】


それほどの業と申しますのは、
「弥陀の五劫思惟の願に匹敵するほどの業と」こういう読み方をするのだと思うのです。
ですから、弥陀の五劫思惟の願が、そして兆載永劫の修行が、なぜ必要であったかというと、それ程の願行によらなければ救われることのできない程の私の罪悪深重の業がそこにあったからであります。
阿弥陀仏の本願があって私が救われるのではなくて、地獄に沈んでいく私があるから、阿弥陀仏の願行が成立したのであります。
歎異抄に探る  念仏のみぞ 後序(第二,三,四節)霊山勝海  すねいるCDより】


【手品師コメント】
「五劫思惟の願と兆載永劫の修行」ということからも、私の業がいかに罪悪深重であるかということが伺われます。
その願と修行をなされたのは、人でなく阿弥陀さま(法蔵菩薩)であること。
仏さまにして想像を絶する時間を要したということは、いかに私の業が罪悪深重であるかを物語っています。