お背戸(せど)でもいだ橙(だいだい)も、
町のみやげの花菓子も、
仏さまのをあげなけりや、
私たちにはとれないの。
だけど、やさしい仏さま、
じきにみんなに下さるの。
だから私はていねいに、
両手かさねていただくの。
家(うち)にやお庭はないけれど、
お仏壇にはいつだつて、
きれいな花が咲いてるの。
それでうち中あかるいの。
そしてやさしい仏さま、
それも私にくださるの。
だけどこぼれた花びらを、
踏んだりしてはいけないの。
朝と晩とにおばあさま、
いつもお灯明(あかり)あげるのよ。
なかはすつかり黄金(きん)だから、
御殿(ごてん)のように、かがやくの。
朝と晩とに忘れずに、
私もお礼をあげるのよ。
そしてそのとき思うのよ、
いちんち忘れていたことを。
忘れていても、仏さま、
いつもみていてくださるの。
だから、私はそういうの、
「ありがと、ありがと、仏さま。」
黄金(きん)の御殿のようだけど、
これは、ちいさな御門(ごもん)なの。
いつも私がいい子なら、
いつか通ってゆけるのよ。
【空のかあさま 金子みすゞ全集・Ⅱ JULA P233~P235より】
※一部、現代語にしました
仏さま(阿弥陀さま)は、いつも私をみていてくれます。私が、仏さま(阿弥陀さま)のことを忘れていようとも。仏さま(阿弥陀さま)の慈悲の心を感受しての生活は、根底に安心があります。仏さま(阿弥陀さま)という拠りどころがある人生は、「人間に生まれてよかったぁ~」という満足感といますか充実感があります。まさに、ありがと、ありがと、仏さま(阿弥陀さま)、です。
この詩(お仏壇)もそのように感じて謳った詩なのでしょう。
令和元年7月14日撮影(金子みすゞ記念館:山口県長門市)