手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

感受する心

 

『阿弥陀経』の中に、お浄土の池には「八功徳水(はっくとくすい)が満ちていると説かれています。このことは浄土には〝八種類の特別なはたらきを、功徳を具えた水〟があるということではありません。お浄土の水も、娑婆の水も、地獄の血の池の水も、〝H2O〟以外にはありません。ただ、その〝H2O〟をどのように感受するかが問題です。「水」の意義を水道代で考えるのか、万物を潤し、生かす無限のすばらしさを感受するか、その違いです。

浄土は「有るか」「無いか」ではわかりませんし、味わうことはできません。その経説を豊かに感受する「心」が開かれなければ、受け入れることはできません。それを通して、自身の不実性が知らされていくのです。それが浄土のはたらきであり、真実のはたらきでもあるのです。

【無明の酔いをさます阿弥陀仏の薬   天岸浄圓 自照社出版 P 70、P 71より】

 

水は水です。それ以上でもそれ以下でもありません。受け取り手である私の感受性によって、水の捉え方が違ってきます。

南無阿弥陀仏のはたらきも然り。

受け取り手の私の感受性によって、全く意味合いが違ってきます。その受け取り手である私の感受する心もひっくるめて阿弥陀仏さまはサポートしてくれます。他力といわれる所以です。 ですので、私はといいますと、阿弥陀さまに「ただおまかせ」です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

「と」

「私と仏」の間に「と」がある。その「と」がはずれる。南無阿弥陀仏

【松並松五郎 念佛語録より】

 

 

これは、先日紹介(タイトル:垣根がない関係 ※1/20投稿)した、松並松五郎(念佛語録より)の言葉です。少し掘り下げてみたいと思います。

ここでいう「と」は、疑いの蓋(ふた)です。

阿弥陀さまと私を遮っている蓋(ふた)です。この蓋(ふた)がある限り、阿弥陀さまと私は融合することはありません。「と」が外れたとき、一心同体 南無阿弥陀仏となります。つまり、私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、「と」は無くなります。たかが「と」ですが、されど「と」です。見た目は単なる「と」ですが、かなりの曲者です。

 

疑蓋(ぎがい)

蓋はおおうの意で、真実をおおいかくす疑いの心のこと。親鸞は、疑いが雑らないことを「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」といい、他力信心を表す語とする。

※浄土真宗辞典 P112より

 

f:id:tarou310:20190127165918p:plain

 

「現代人の不幸」の原因

以下、哲学者である三木 清の言葉です。

『幸福について考へることはすでに一つの、恐らく最大の、不幸の兆しであるといはれるかも知れない。健全な胃をもつてゐる者が胃の存在を感じないやうに、幸福である者は幸福について考へないといはれるであらう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考へないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考へる氣力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられるほど今の世の中は不幸に充ちてゐるのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであらうか。今日の人間もあらゆる場合にいはば本能的に幸福を求めてゐるに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剩に苦しむともいはれてゐる。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考へないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴附けてゐる。』

【人生論ノート(幸福について)三木 清  青空文庫より】

※無料(人生論ノート:Kindle版)でダウンロードできます。

 

日本を代表する哲学者の一人である三木 清の文章(言葉)です。昨年、生誕120年を迎えたとのこと。48年と短い生涯でありましたが、多くの著書を残しています。ここで、採用した三木の言葉は、「現代人の不幸」の背景について鋭い視点で指摘しています。とても考えさせられる内容です。よい表現が思い浮かびませんが、この三木清の言葉を紐解くと、生きる意味といいますか、そのヒントがあるように思います(漠然とした表現で申し訳ありません)。

以下、切り口を変えての個人的な感想です。

「自意識過剰」はあらゆることに対してハードルになっているように思います。南無阿弥陀仏のはたらきを語る上でも然り。また、超越的なモノにおいては、素直に委ねる姿勢が大事であるなぁ~と、あらためて思いました。

 

発想の転換

物事を色々な角度からみてみますと、いままで気付かなかった発見があるかもしれません。この季節、私の住んでいるところは雪かきが日課です。雪かきにおいても心もち一つで苦痛にもなり、楽しみにもなります。言い換えれば、発想の転換ができるか否かで天と地の差です。

南無阿弥陀仏のはたらきも然り。

南無阿弥陀仏のはたらきは普遍です。受けとる私側に問題があります。その私の問題もひっくるめて阿弥陀さまは動いてくれています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

f:id:tarou310:20190123212743j:plain