手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

あほうどりさん のこと

 先日、Kさんから送って頂いた「あほうどり記」を読みながら懐かしんでいます。娘がまだ小学5年生の頃と記憶しています。マイケルジャクソンがこの世を去った少し後の時期でしょうか。あほうどりさんと弟が、日本海(寝台車)に乗ってはるばる富山から青森まで来て頂きました(現在、日本海は廃止)。滞在時間12時間と短いひと時でしたが、その時の記憶は今でも新鮮です。義母にも来てもらい、一緒に南無阿弥陀仏のお話を聞かせて頂きました。そのために、学校に置いてあるような大きなホワイドボードも用意しました(笑)。
 夜は焼肉でワイワイガヤガヤ(笑)。用意した大量のお肉が、あっという間になくなりました(驚)。大食家3名(あほうどりさん、弟、私)の凄さに唖然としていた嫁の顔は今でも覚えています。当然、嫁が食べるお肉はなかったのでした(笑)。今となっては、よい思い出です。
 あほうどりさんとは、その時初めてお会いしてその後1回だけのご縁でした。直接、お会いした回数は少ないですが、私にとって忘れられない恩人です。(あほうどりさんは)南無阿弥陀仏となってここにいますね。たぶん・・・。
 さて、当時、小学5年生だった娘も二十歳となり、その晴れ着姿を見て感慨深いものを感じます。時が流れるのは本当に早いものです。やっぱり、南無阿弥陀仏しかないなぁ〜。しみじみ思います。「いま・ここで・わたしが 南無阿弥陀仏」。人生これに限りますね〜。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


言葉のはたらき

語られた言葉
われわれの学者のなかには、書記言語、すなわち「書かれた言語」にしか意味を認めない人もいます。しかし、本当に重要なのは「語られた言葉」です。なぜなら、そこには言葉だけではなくて身体的なものが全部ひっくるめて存在しているからです。
親鸞 いまを生きる 朝日新書 姜 尚中 P48より】


語られた言葉の大切さ
 二九歳の親鸞法然のもとに通ったとき、法然は六九歳でした。親鸞には、法然に聞きたいことが山のようにあり、多くの質問を投げかけたに違いありません。
 姜先生がおっしゃったように、語られた言葉、オーラルな言葉、そういうものが、教えにおいては大事なのだと思います。
 人が全存在をかけて、生きている内実を語り、それをその場で聞くこと。それはいったん文字化され客観化された文章に触れるのと違って、時間、空間、そして湿度などを肌で感じながら共感することができます。その人の体験したことに、より近いかたちで触れることができるのです。
 私自身も、運よく京都で、親鸞学徒の泰斗である曽我量深先生(一八七五-一九七一)や安田理深先生(一九〇〇-一九八二)の教えに触れることができました。「お育て」というのですが、自分で育とうと思ったわけじゃないけれど、その教えを、わからない、わからないと聞いているうちに、その聞いた言葉が育ててくれるのです。言葉で何回も何回も考え直していくうちに、ああ、そうだったのかとわかるときがきます。
 ところが現代では、新聞やテレビ、雑誌、インターネットなどからひっきりなしに情報が流れています。人々はそれを受け取ることに精一杯で、何かを探そうとしたときに、師となる人を訪ね、じかに触れて、先生が何を考えていらっしゃるかを直接聞くということが珍しいことになってしまいました。
 肉声で伝えられる教えに耳を傾け、身体に通すというのは、生きた言葉に触れ、それを自分自身で確認しながら、本当かどうか、時間をかけてたずねていけることなのです。
 促成栽培みたいに与えられた栄養で、どの株も同じように育つという考え方では、本当の、人間のいのちが燃えるような情熱は伝わりません。一度、尊敬する人からじかに話を聞くことの大切さを見直してみるとよいのではないのでしょうか。
親鸞 いまを生きる 朝日新書 本多弘之 P67〜P69より】



まさしく、「言葉は語る」ですね。
南無阿弥陀仏も然り。
南無阿弥陀仏は単なる言葉、記号や呪文ではありません。
南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきが込められています。
そのはたらきを感じとれる身になりたいものです。
今回、この本を図書館で読破しました(笑)。かなりオススメです。早速、アマゾンで注文致しました。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

試行錯誤

 時代にあった表現方法で、南無阿弥陀仏を伝えることはとても大事なことだと思います。そうしませんと、本来、伝わるべきことも伝わらないケースが少なからずでてくるのではないでしょうか。まずは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂くことが先決です。やはり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人の話にはパンチがあるといいますか共感を覚えます。
 私はといいますと、どうしたら、多くの人に、南無阿弥陀仏のはたらきについて分かってもらえるか、阿弥陀さまにお伺いしながら試行錯誤していきたい、と思っています。はっきりいいまして楽しい時間です。
 留意点としまして、あまりにもカスタマイズしすぎて、本来の意味が損なわれることは絶対に避けなければならない、というところです。


仏法ひろまれ 響け 届け


つもり君、つもりさん

長い間仏法にかかわって生活をしてきておればおるほど、わからんものもわかったつもりで通り過ぎていってしまうのです。そして人が質問すると、そんなことがまだわからんのかといって、自分がわからない部分を隠してしまうということがなければいいのですけれども、あるとこれはたいへんです。それは、人が悪いとか、人がいいとかいう話ではなくて、やはり仏法を聞くということにも妙な羞恥心というのがあるのです。ここまで聞いてもまだわからないというようなことを人前にさらしたら、仏法を聞いてきたことがなんのために聞いてきたのかわからないことになってしまう。だからわからんけれども、わかったつもりになろうという、つもりの宗教、つもりの御信心になってしまうのです。
親鸞の宿業観 歎異抄十三条を読む 廣瀬 杲 法蔵館 P107,P108より】



「私の生死問題解決」において、私のプライドは何の意味もありません。周りを気にする余裕があるうちはまだまだです。まさに、自分大好き人間の特徴といえるでしょう。
「つもり君」や「つもりさん」に阿弥陀さまの存在はありません。阿弥陀さまに思いっきり体当たり、いいじゃないですか。しっかり受け止めてくれますよ。体当たりさせてくれるはたらきも実は阿弥陀さまなのでした。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏