手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

無常のいのち (童謡:しゃぼん玉より)


画像は http://road-weed.de-blog.jp/m_days/2009/07/post_298c.html シャボン玉より


 自分のいのちが無常であるということを知るなら、一瞬一瞬のいのちがいかに大切であるか、今なすべきことは何であるか、ということを真剣に考えるようになるのです。仏法はそこから始まるといっても過言ではありません。


しゃぼん玉とんだ  屋根までとんだ
屋根までとんで   こわれて消えた


 よくうたわれる「しゃぼん玉」の一節です。作詞は野口雨情です。
音楽史家の長田暁二氏によりますと、いつどこにこれが発表されたか明らかでなかったが、最近になって、大日本仏教子ども会で発行していた児童雑誌「金の塔」に大正十一年に発表されていたことがわかりました。
 大正九年、雨情は作曲家の中山晋平、歌手の佐藤千夜子らと一緒に、自分たちの作った童謡を広める全国キャンペーンをしていました。ちょうど四国徳島にいた時です。故郷の茨城から二歳になったばかりの娘が疫痢で急死したという悲しい知らせが届きました。愛し子を失った悲しみ、あまりにもはかなく消えたわが子のいのちへの愛しみがこの童謡を生んだのです。雨情は続いて第二説に、


しゃぼん玉消えた  とばずに消えた
生まれてすぐに   こわれて消えた
風、風吹くな    しゃぼん玉とばそ


とうたっています。雨情はこの短い一節のなかに「消えた」という語を三回も用いています。これによっても幼ない愛し児を失った雨情の悲しみがどれほど深いものであったか、その心が痛いほど伝わってきます。
 しゃぼん玉は無常のいのちそのものです。屋根までとんで消えるしゃぼん玉、それに比して生まれてすぐとばずに消えてしまったしゃぼん玉 ―― そのしゃぼん玉に愛児のいのちを重ね合わせ、そのどうしようもない悲しみから「風、風吹くな」と心から願わずにおれなかったのです。
 しかし、このようにいとし児の死を悲しむ雨情でありましたが、この童謡からは、悲しみが「いのち」への深いめざめとなっているのを感じ取ることができます。 中略
 無常の現実にわが身が直面した時、私たちは、いったいどのようにそれを受け止めるでしょうか。生死の一大事の解決をめざして歩もうとするのか、それとも目を背けてそれから逃避しようとするのか、あるいは忘れ去ろうとするのか、そのうちいずれかでなかろうかと思います。仏教には「この世のすべては移り変わる。怠ることなく努めよ」と遺言された釈尊の最後のことが伝えられています。
 諸行無常 ―― と釈尊は言って涅槃に入られたのです。無常の理をしっかりと心に止め、悟りをめざして努めよ、と教えられているのであって、釈尊の教えはこのように、無常に始まり無常に終わっているということができます。
 したがって「しゃぼん玉」のうたもその観点から理解しなければならないことは言うまでもありません。少なくとも私はそのように考えています。
【みんなの法話1 本願寺出版 仏法のことは急げ 瓜生津 降真(京都女子大前学長)
P188〜P193より抜粋】