手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗の信心

 阿弥陀仏の慈悲が分かるためには、善行を積み重ねるということではなく、阿弥陀仏の誓いを信じて念仏するということに尽きる。だが、いくら念仏をしても、ただちに阿弥陀仏の慈悲が身に満ちるとは限らない。念仏を呪文のように唱えるだけでは、阿弥陀仏の慈悲は実感できない。念仏する身となっても、もう一段の展開が要求されてくるのである。
                    (中略)
 つまり、阿弥陀仏の慈悲は、人間の考えをはるかに超えた広大なものであり、人間が自分を基準にして推し量れるようなものではない。にもかかわらず、人間はさまざまな条件を自ら作りだして、阿弥陀仏の慈悲を勝ちとろうとする。そして、自ら作り出した条件に自縄自縛となって阿弥陀仏の慈悲を矮小化してしまったり、手の届かないものにしてしまう。たとえば、念仏に回数の制限を設けて、一日に何万回となく唱えないとダメだとか、反対に一度だけ唱えれば十分だとか、いずれにしても人間の側で条件を作って広大な慈悲を見えなくしてしまっている。そのことに気がつく必要があったのだ。
 たしかに、阿弥陀仏とはとはなにかを尋ねるのは、まさしく自分である。自らあらゆる手段を尽くして阿弥陀仏とはなにか、を問わねばならない。阿弥陀仏の慈悲がどのようにすれば分かるか、それを身を以て実験するしかない。自ら問わずして、また努力することなくして、どうして阿弥陀仏とはなにかが分かるであろうか。信心は、棚からぼた餅というわけにはゆかない。
 しかし、あるとき、そうした問いや実験が無効であったということに気づくのである。阿弥陀仏が、そのような自分の力を頼りに求める人間を憐れんで、そのような人間のために慈悲を注ぎ続けていることに気づくのである。阿弥陀仏は、何事につけてもいつも自分を基準にして物事を推し量ろうとする人間の自己中心性に対して限りない憐憫の情をいだいている存在だということが分かってくる。
 こうなると、自分の料簡で阿弥陀仏の慈悲を推し量るのではなく、阿弥陀仏にすべてを任せてしまうということ以外に浄土真宗の信心はないということになる。阿弥陀仏にすべてを任せきったとき、阿弥陀仏の慈悲が全身にあふれてくるという事態が生じるのである。
【日本人はなぜ無宗教なのか 阿満 利麿(あま としまろ) ちくま新書 P183〜P185より】
※宗教ゼミ(2日目)嵩 満也 先生(中央仏教学院 講師)の講義で紹介
※学びの友42巻9号(5月号)嵩 満也  P6〜P9 で紹介
※お勧めの書籍です



スクーリング(中央仏教学院通信教育部 3年次 学習課程)を受けてきました
築地本願寺:5/31〜6/1


スクーリング(schooling)
「学校という場で学ぶこと」を原義とするが、学校教育場面で言う場合は、通信教育によって学んでいる人が、教室で教員と直接対面して授業(講義、演習、実験・実習・実技)を受けることをいう。【ウィキペディアより】



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