手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

あたりまえがおどろきに

魚との出会い
 ふと、テレビのスイッチを入れました。「課外授業ようこそ先輩」という番組でした。あまり大きくない町の中学校の風景でした。生徒たちが待ちうけている教室に、その中学校を卒業した、今はかなり有名な絵画の先生が現れました。生徒たちは、どんな話をするのか、と先生の顔をみつめました。
 ところが、この先生は、いきなり、「みんな魚って知ってるよね」と声をかけました。
 生徒たちは「そりゃ、魚ぐらい知っているよ」と返事をしました。
 すると先生は「今から、魚の絵を描いてもらいます」と言われました。
 みんな一枚の紙に魚の絵を描きました。先生は、みんなが描いた絵を生徒の方に向けて言われました。
 「どれもこれも顔が左で尾が右で、まったく同じ魚だね」
 たしかにテレビの画面を見ていると、まったく図鑑に出ている写真とそっくりな、まるでタイ焼きみたいな魚の絵でした。
 先生は次の瞬間、みんなを校庭に集めて、そのまま歩いて、川や池に連れていかれました。そして実際、魚を釣って、それをバケツの中に入れ、学校に持ち帰って水槽の中に入れて、みんなで魚をじかに見ました。
 次の瞬間、先生は再び、「みんな、もう一度魚の絵を描いてもらいましょう」
と言われて、みんな魚の絵を描きました。
 生きた魚の絵はまったく違っていました。体がくねっていたり、うろこがギラギラしていたり、目玉だけが、自分の方に向いていたりして、ピチピチ跳ねている魚でした。
 次に釣れた魚を実験室で解剖しました。のぞきこんだ生徒が「魚の背骨も内臓も僕と同じだ」とハッとした表情で言いました。


見つめれば 
 私は、次のような言葉を綴ってみたことがあります。

 
  見つめれば
  あたりまであることが
  おどろきとなる
  見つめれば
  どこにでも
  教えがある


 先の「ようこそ先輩」のように、図鑑のような魚、覚えた魚だったものが、生きた本物に出会い、じかに見た、感じた魚となったのです。
 いま一度、あたりまえであると思い込んでいることを、そのまま、正しく見つめて、おどろきを知ることが大切なことではないでしょうか。
【みんなの法話 1 本願寺出版社 中西智海(本願寺派勧)P5〜P8より】
※中西智海 勧学は、昨年、お亡くなりになられました(学びの友 新年号より)



いままで、当たり前と思っていたことに、新しい発見があります。気づきがあります。
実は、当たり前ではなかったのです。
「あたりまえがおどろきに」ありがたいことですね。
南無阿弥陀仏