手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまを信じるとは

 私たちは、たとえば美しい花に出会って美しいと本当に思った時には、自分を忘れているのです。自分は確かにここにいて向こうに美しい花があると思っているだけなら、美しいという感動は、本当は起こってないのです。自分の我を張っていたら、花の美しさに出会うことはできません。自分が花の美しさに占領されてしまって、自分というものの入る余地がなくなって、初めて美しいのです。「美しい」と本当に感じることは、私が花を捉えることではなく、反対に花によって私の方が捉えられることです。私が花を捉えようとしている間は、まだ花の美に出会ってないのです。だから、偉大な画家たちはみなものの美によって捉えられた人たちでしょう。自分の我があったら、本当に美しい絵は生まれないのです。
 まして阿弥陀さまの本願に出遇ったら、私たちの我はもうありません。阿弥陀さまの本願にすっかり占領されて、それまで大事に思っていた私の我は崩れてしまう。この自分よりも大事なものがあったということを知らされたことが、阿弥陀さまを信じたことです。
【永遠と今 浄土和讃を読む 上 大峯 顯 本願寺出版 P270,P271より】



なんのはからいもなく、なあまんだぶつ とお念仏がでたら、もうすでに阿弥陀さまを信じたことになります。別な表現でいえば、阿弥陀さんにただおまかせ、ということです。まことにありがたいといいますか、気持ちが軽やかといいますか、はたまた安心といいますか、楽なものです。