手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

法に依って、人に依らざれ

 吉崎時代、本願寺の教線が爆発的に広がっていくにつれて、上人を尊敬するというよりも、むしろ、「生き仏」としてあがめ、目の当たり、上人を拝むだけで往生できるかのように思う人が出てきました。日本人の心底に流れているシャーマニズムは、つねに「生き神信仰」とか、「生き仏信仰」となって現れてくるのです。こういう信仰が、知識帰命の温床になっていたのです。
 上人は、人々のそういう信仰の危なさを誰よりも恐れておられたのです。それゆえこのような厳しい誡めの『御文章』をかかれたのでした。
 「この吉崎御坊へ参詣する人のなかには、この私を拝む人があるが、拝む方向を間違えているではないか。拝むべきは阿弥陀如来であり、たのむべきは弥陀の本願だけです。阿弥陀仏をたのみまいらせるよりほかに、後生の助かるすべは決してありません。この私に人を救う力があるとでも思っているのでしょうか。煩悩にまみれた、怠け者で、尊いところなどどこにもない、ただの老人に過ぎない、こんな私を拝んで、それで浄土へ往生できるとでも思っていなさるのか。私を拝むくらいなら、墓場に行って、倒れかかった五輪の塔でも拝んでいる方が、まだしも功徳があるでしょう」というのです。
 親鸞聖人が、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(歎異抄第六条)といわれたことは有名です。そして聖人は、釈尊の「法に依って、人に依らざれ」という誡めを守るべきことを教えていかれたのです。善知識とは、自他ともに帰依すべきものは南無阿弥陀仏であるということを指示する人です。万人を救う本願の法こそ、万人の確かな帰依所となるからです。間違っても私を拝めという人を拝んではなりません。この世に生きて在る限り、どんな人であっても、時と場所の制約を受け、過ちを犯す者だからです。仏教では、人間が絶対者の位置に座ったとき、それを悪知識と呼んできました。
【光をかかげて ―蓮如上人とその教え― 梯實圓 本願寺 P73〜P75より】
                            


向くべきは阿弥陀さまであって、人ではありません。
人が絶対者の位置に座ったとき、つまりカリスマ性をもったとき、とんでもないことになります。