手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

死について

 人間を表現する言葉に、「死すべき運命にあるもの」というものがあります。確かに、そのとおりなのですが、それは犬や猫のような動物でも、鳥や魚、そして昆虫でも生物はみな同じです(ですから仏教では一切衆生というのですが)。しかし、人間が他の衆生(いきもの)と違うところは、「人間は死すべき運命である」と自らを認識できるところにあります。それは、未来にやってくるであろう死を予見できるということです。
 ここに、人間の人間たる所以があります。つまり、死を予見し、死の準備ができる生物―それが人間であるというわけです。もちろん、逆に死を恐れて、死から逃れようとすることも起こります。特に現代日本のように多くの方々が、死を迎えるまでに数十年の準備期間を用意されている幸福な時代においては、死への準備は万端のはずです。しかし、実際にはその期間があまりに長いために、逆に死を迎える準備を怠ってしまうこともあるようです。
 科学技術・医療技術の発達などで、あまりにも長くなった死への準備期間のために、死の訪れを忘れてしまう。あるいは、死は来ないものと錯覚してしまう。これが現在の日本人の一般的な姿ではないでしょうか。こうして日頃死の準備を怠り、生きることのみに専念することにより、いざ死に直面すると右往左往してしまう。
 特に、近代科学文明という唯物論に毒されている最近の日本人は、死に後ろ向きな文化を形成してしまったと言えましょう。
 死について学習する機会もなく、死に価値を置く文化も奪われ、唯物論が支配する社会。そうした社会における唯一の生き方は、たとえリンゲル注入のチューブによってスパゲティー状態にされても、一分一秒でも長くこの世に生きながらえることです。なぜなら、その後の世界を考えることも、またそれに思いを馳せることも、それに価値を見出すこともできないからです。
 しかし、死は誰のもとにも確実にやってきます。現在の日本人の多くは、死を迎えるにあたり心の準備も、覚悟もなく、死という未知なる暗黒の淵へ、後ろ向きに投げ込まれるような、不安と恐怖に駆られているのではないでしょうか。そこには死と向かい合い、死に積極的な意味を与え、それによって死を克服してきたかつての日本の文化の積み重ね、民族の智慧は、生かされていないように思われます。まさに原始レベルの人間の精神性に返った、未熟な死への恐れのみが支配しています。
 だからこそ、人間は決して不老不死なる存在ではない、という現実の認識が必要となります。たとえ、どんなに科学が進歩して生物としての物理的な寿命が延びようとも、人間の命は、結果的についえる運命にある。この現実にどのように向き合うか、ということで人間の一生はずいぶん変わってくるのです。
【「老いと死」を語る 中村 元 著 麗澤大学出版会 P97〜P99(死への文化を忘れた近代日本 保坂俊司より)】

 

 日常生活において、どれだけの人が「死」について真剣に考えているでしょうか。日本においては、「死」を連想するような「数字の4」などを嫌う傾向があります。そういうことからみても、死に対して直視することを避けている、といえます。
 また、英語圏において、「死」という言葉を用いる場合、
「He dies.」とは言わず、「He passed away. 」というそうです。住んでいる地域に関係なく「死」をオブラートに包み込んで生活しているのが現状です。
 つまり、誰しも「死」というものを避けたい、遠ざけたい、ということです。
 避けて通れない現実に目を向けて生きていきたいものです。