手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

人間に生まれた意味

 いつもと変りなく勤められる毎月の法座が終わり、夜が更け、帰られる御同行さんを見送りながら、フッと「人間の身体(からだ)は仏法を頂く宝や、大事にいとなませてもらわねば勿體ないことやなぁ。」と、気づかせて頂いたことでした。「宝」と聞かれて、どんな宝を思われるでしょうか。貴方(あなた)の宝は何でしょうか。国宝、寺宝、家宝、宝くじ、宝石等々、たくさん挙げられますが、これら目に見える形の有る宝は、悲しい事に火事にあえば焼け、盗まれれば無くなってしまいます。お金で買えるものにしか出会っていない人生は、身のまわりを宝で囲まれていても、結局は、絶望・苦悩・空しさに行き尽きてしまうのではないでしょうか。
 私達の一番欲しい宝は何でしょうか。何を望んで生活をしているのでしょうか。私自身は、真実の宝が何であるかも気づかず、又、考える事もなく長年日々、流されて生きて来ました。み教えに育てて頂き、やっと求めていた宝が明らかに成ったのです。それは、人間に生まれた意味でも有りました。
 人間は、「いのち」に安心出来るものが欲しいのです。即ち、今生を安心して生きる。来世を流転しない「いのち」こそ、人間の求める最高の宝で有りましょう。私の欲する宝、気づかせ、私が気づくより先に、宝が仕上がってました。阿弥陀さまの声が聞えます。「この最高の宝を受け取る為に、億劫の間、六道を廻って、やっと生まれ難い人間に生まれたんだよ。よかったな。人間に生まれたことを大事にしなさいや。私(阿弥陀さま)の方で、お前の宝は仕上ってあるぞ。受け取ってくれよ。」と、貴方(あなた)に、私に、今、すでに声となって届けられた真実の宝こそ、「南無阿弥陀仏」の名号であります。名号は光明です。そして、自在に生かされる安心の道です。私、宝いただきました。
【インターネットで聞く法話 No444 「私、宝いただきました」加藤純幸(幸子)布教使より】


※加藤純幸布教使は、専念寺(三重県津市)の坊守さんでもあります。
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20120416


※ここから視聴できますよ〜(2分34秒)
http://tsukijihongwanji.jp/plan/148


【手品師コメント】
「宝が明らかに成った」という表現いいですね。
「宝といっても物ではないこと、すでに宝に囲まれていること」をあらわしています。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきを気づかせて頂く』ということなのです。
なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。