手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

なぜ、命は尊いのか?

この頃の日本社会は、いのちを大事にしましょうということが合い言葉の一つみたいになって、宗教家たちもこれに同調して、いのちは尊い、いのちを大事に、ということばかり言うようですが、いのちが尊いことの理由にあまり触れようとしないと思います。
この身体的生命を大事にして、なるべく長生きしよう、それが宗教であるかのように思い違いしているんじゃないでしょうか。
お寺の伝道掲示板などを見ても、ときどき「たった一度の人生だから大切にしましょう」と書いてあります。これは、お坊さんでない人が言うのならわかりますが、お坊さんが言うとしたら理由がもう一つ薄弱だと思います。


いったい、私どものいのちはたった一つだから大事なんでしょうか?
一度きりだから尊いんだろうか。
たった一つのものならどうして尊いのでしょうかね?
私なんか非常に疑い深い人間ですから、そんないいかげんな理由で「そうだそうだ」とは言えないのです。
なぜたった一つの命なら尊いのでしょうか?


たいていの日本人にはこの個人のいのちが一番尊いものになっています。仏法を聞いている人でも、阿弥陀さまは何で有難いのかというと、それはこの大事な私のいのちを守ってくれるからだと、思っているかもしれません。
けれども、仏法をよく聞きましたら、この私という個人のいのちはたった一つだから尊いんじゃなくて、私個人より大きないのち、無量寿如来様のいのちの一部だから尊いという考え方に変わってくる筈です。
日々、如来様に生かされているいのちだからこそこの命はかけがえがないわけです。
この微妙な違いを識別していくところがとても大事なことです。
今の浄土真宗ではここがもう一つはっきりしていないように思います。


【なごりをしくおもへども『歎異抄』第九条 大峯 顕 百華苑 P16,P17より】