手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

なぜ、多くの人が仏になることができずにいるのか?!

道綽禅師の『安楽集』上には、つぎのように記されている。
問う。
すべての人々は、だれでも仏になる可能性があるといわれているが、実際には、多くの人が仏になることができずにいる。それは一体どうしてなのか。思えば、人々ははるかな昔から生れ変わり、死に変わりして今にいたっており、その間、多くの仏たちとも出逢ってその教えを聞く機会も決して少なくなかったであろうに。それにもかかわらず仏になることができないでいる。


答える。
仏教には「聖道」と「往生浄土」というすぐれた教えがあるにもかかわらず、その教えにしたがって「苦」を解決しようとしなかったからなのだ。


しかも、その一つである「聖道」の教えは、時代の衰えた現代では実践しても成果が得られない。
理由は二つ。
一つは、釈尊がなくなられてからはるかな時間が経ってしまったから。
二つは、「聖道」の教えは深遠で理解が難しいから、だ。


このことについて、『大集月蔵経』もすでにつぎのように述べているではないか。「釈尊滅後、時代は衰える一方で、ついに『末法』という、いくら修行をしてもその成果が得られない最悪の時代となってしまった。そのような時代では、人々が修行を志し、実践を重ねても、一人として仏になることはできない」、と。


私、道綽は(50歳にして)なんとその末法を迎えてしまったのだ。現に、この世は、人は短命となり、因果の道理に暗く、貪りの心ばかりが深く、争いにあけくれて、飢饉・疾病がつぎつぎと襲いくる悪世そのものだ。このような時代にあっては、仏になる道はただ一つ、「浄土」の教えしかない。そのことを明らかに説いているのが『無量寿経』である。『無量寿経』はのべる。「たとえ一生の間悪のみをつくって生涯を終わる人間がいても、命終わるとき、阿弥陀仏の名を称すれば、阿弥陀仏は必ずその人間を自分の国へ迎えとると誓っている」、と。


ひるがえって思うに、私たちは自らの能力を十分に省みているとはいえない。たとえば、大乗仏教の教えでは、真理を把握し、真理と一体になることが求められているが、そうしたことに心をよせている人がいるであろうか。あるいは、大乗仏教以前の南伝仏教の教えでは、真理を悟るための様々な段階が設けられており、また煩悩を断つ工夫もなされているが、現在では、僧侶であろうと俗人であろうと、その修行すらできる者はいないのだ。


そればかりではない。不殺生戒など五つの戒を保つことにより人間と生まれることができ、また、不悪口などの十の善行を保持して天人に生まれるという果報を受けるといわれているが、その五戒や十善ですら今では保ちうる人間はきわめて希なのだ。反対に、悪を犯し、罪をつくるとなると、その激しいさまは、あたかも暴風や豪雨と異なることはない。


だから諸仏は、慈悲心をもって私たち衆生に「浄土」の教えに帰するようにすすめられるのである。私たちはたとえ一生の間、悪のただ中で過ごしても懸命に心を阿弥陀仏にはせて、つねに阿弥陀仏の名を称すれば、あらゆる障りは自然に消えて除かれ、必ず阿弥陀仏の国に生まれることができる。こうしたことをよく考えずに、すべてを捨てて阿弥陀仏の浄土へ赴こうという決心ができないのはまことに残念である。
選択本願念仏集 法然の教え  阿満利麿 角川ソフィア文庫 P20~P22より】



「なぜ、多くの人が仏になることができずにいるのか?」の問いに対して、
法然聖人は道綽禅師の安楽集から以下のように回答されています。
『仏教には「聖道」と「往生浄土」というすぐれた教えがあるにもかかわらず、その教えにしたがって「苦」を解決しようとしなかったから』と。
ただし、この末法の時代において仏になる道は、「浄土」の教えしかない、と断言されています。つまり、この時代に生かされている我々においては、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂き、報恩感謝のお念仏を称えさせていただく以外に、(寿命尽きて)仏になる道はありません。


また、なぜ、阿弥陀仏は「このいま救う!」と約束しているにもかかわらず、私はこのいま救われないのか?という疑問が、当然、湧いてくると思います。
それに対して、阿満氏は「法然を読む」の中で
『人ははるかな過去からさまざまな業を背負って今ある存在となっているのであり、その業の結果は、仏といえども自由に変えるわけにはゆかないのである』と。
さらに、
『本願念仏に縁がないということは、業のしからしむるところであり、本願念仏に結縁(けちえん)することは長い時間をかけて、いわば機が熟するまでひたすら待つしかないのだ。』
と続いています。


妙好人おそのさんは、団子汁をもちだして、次のように語ったそうです。
「あの夕方になりますと、女中がお汁を拵(こしら)えて、それへ団子を入れて下から焚きたてますね。」
「すると団子に煮える気はないけれども、火の力でひとりでに煮え上がりますね。煮え上がったと思う頃に、すぐすくい上げて下さりますよ」と。


誰もが、遅かれ早かれ、必ず、南無阿弥陀仏の身にさせて頂けます。であるならば、いまにこしたことにはありません。すでに南無阿弥陀仏のおはたらきに包まれているのですから、そのはたらきに気付かせて頂くだけです。


阿弥陀さまのお育てに、ただ感謝。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ  


【お慈悲のままに  Karmic Condition(業縁) 2014 11 07 参照】  
http://d.hatena.ne.jp/miko415/



三朝七高僧絵像(大塚山 西来寺 東本願寺




死んだら仏?!

「死んだら仏」というフレーズを時々耳にします。
果たして、死ねば誰もが仏になるのでしょうか?
最近では、時代劇はあまり放映されませんが、「死んだ人=仏さん」というシーンがよくでてきます。
「死んだら仏」といえるのは、あくまでも、生前、阿弥陀さまからご信心を賜ったひと、つまり、生前、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂いたひと、という大前提があってのことです。その点にもっと注目したいものです。
今日もなまんだぶつ