手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「信心がさだまる」ということ

信心が定まると、本願念仏の教えでは、往生の心配はもはや要らぬこと。往生は阿弥陀仏の仕事であって、私が心配する余地は全くない。たとえ、その間に悪事を犯したとしても、阿弥陀仏の本願を仰げば、阿弥陀仏の力によって、自ずとこころの改まることもある。改まらないといってそれを苦にすることもない。もともと道徳的改心の有無と往生とは無関係なのだから。
しかし、「異議」においては、信心が定まっても、道徳に背くことをすると、その都度改心しなければならないという。もしそういうことになると、死ぬまで改心が必要となるではないか。いや、死ぬ間際に、病苦などに責められて改心する暇がなければ、往生もできないということになる。これでは、道徳改心によって往生を勝ち取ろうということになり、阿弥陀仏の本願を信じて念仏するだけで往生できるという教えとはいちじるしく異なることになろう。
信心が定まるといっても、阿弥陀仏にすべてを託した上でなければ、さまざまな作為が加わり、約束事が増え、それを守ることが信者であるかのような錯覚が生まれる。だが、阿弥陀仏誓願がもつ、自ずからなるはたらきに全面的によりかかるならば、現世での生き方や、ましてや死後の往生成仏に対して、なんの心配も要らない。そこには諸々の約束事を守らなければならない強迫観念はない。あるのは、「ほれぼれと」念仏するだけの、自在な世界であろう。
「信心がさだまる」ということは、阿弥陀仏の自ずからなるはたらきに身をゆだねるということに尽きる。
【歎異鈔 阿満利麿 ちくま学芸文庫P219,P220より】



「ほれぼれと」念仏するだけ、ありがたいことです。
「ただおまかせ」です。
今日もなもあみだぶつ