手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

本願念仏

本願念仏は「報恩感謝」に尽きるのであろうか。
第十四章にいうように、「この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべき」と思って、深い謝念を覚えるのはいうまでもない。しかし、念仏は阿弥陀仏が私においてはたらく姿なのである。念仏において、私は仏道を歩んでいるのである。私においてはたらく阿弥陀仏は、私を通して、その慈悲の活動を広げてゆくのだ。念仏は、もはや私一人のためにあるのではなく、縁のある、あらゆる衆生へ慈悲を実践してゆく姿ともなるのではないか。念仏は阿弥陀仏の慈悲を伝える「導器」だと、近代の念仏者・清沢満之も喝破しているではないか。念仏は「報恩感謝」の域を超えて、阿弥陀仏の事業に参加する姿なのではないか。
【歎異鈔 阿満利麿 訳・注・解説 ちくま学芸文庫 P192、P193より】



ここで、『念仏は「報恩感謝」の域を超えて、阿弥陀仏の事業に参加する姿』といわれています。
たしかに、「南無阿弥陀仏」と声をだしてお念仏を称えさせて頂くことは、阿弥陀さまに対する報恩感謝のお念仏だけに留まりません。
お念仏は、このいま、「生きとし生けるもの」に呼びかけとなってはたらいています。
今日も南無阿弥陀仏