手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

一寸先は?!

 

「一寸先は闇」ということは、突き詰めれば「今も闇」ということです。『一寸先も光』という身になりたいものです。それは、南無阿弥陀仏に依るしかありません。『南無阿弥陀仏』は、私の人生の支柱になっています!と言える人生でありたい、ものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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Uターン ※還相の菩薩

 

  また浄土に往生して、もう一度この俗世に還ってくる。そうしたら釈尊のように人々を救えるんだ、と親鸞はリアルに感じていたわけです。還相の菩薩となったら、あらゆる手段で人を救えるそうです。

 山口県に深川倫雄(ふかがわりんゆう)〈※1932年~2012年、浄土真宗本願寺派勧学。親鸞の教えを説いた。主著に『観経疏玄義分講讃』『仏力を談ず』〉という人がいたのですが、「わしは還相の菩薩になったら、まず蚊に生まれて、ご法話で寝ている人を刺そうと思うんだ。痒くなって起きて、仏法を聞くだろう。あるいは犬になって、お寺にお参りに来ない人に吠えて、法座へ行くようにしむけるんだ」と、みんなを笑わせたそうです。息を引き取ったら全てが終わるのではなく、その先はるかに続く道を歩む。

【歎異抄救いのことば 釈  撤宗 文藝春秋 P95より】

 

還相回向(げんそうえこう)

浄土に往生してのち、再び迷いの世界に還り来て、衆生を教化すること

浄土真宗辞典P518(二種回向より)

 

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「還相の菩薩となったら、あらゆる手段で人を救えるそうです」 ⇒ いいね!

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、忙しくなりますね(笑)

ありがたいことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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手品師  🌺金子みすゞ(9)

 

私はきのふ、決めたのよ、

いまに大きくなつたなら、

上手な手品師になることを。

きのふ見て來(き)た手品師は、

みるまに薔薇の花咲かせ、

ばらをお鳩に變(か)へてゐた。

【 金子みすゞ全集(JULA出版局)手品師:金子みすゞ】より

 

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 これは、「手品師」というタイトルの金子みすゞの詩です。このブログで、手品師を名乗っている私としましては、放っておけない詩です(笑)。そして、このブログも早いもので12年目となりました(驚)。みすゞさんは、手品が好きだったのでしょう。手品に触れた詩がいくつかあります。

  不思議でしかない手品ですが、その裏では、手品師が練習で培った技術や緻密に計算された仕掛けが背景にあるのです。

  いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人においては、ただ不思議という言葉しか出てきません。阿弥陀さまは、私を救おうと、考えに考えぬかれました。そして、想像をはるかに超える時間をかけてこしらえてくださった南無阿弥陀仏。その南無阿弥陀仏のはたらきによって、私は南無阿弥陀仏の身にならせていただいたのでした。私からみれば、不思議でしかありませんが、阿弥陀さまからみれば当たり前のことなのです。

おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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光に向かう?!

 

  コロナ禍真っ只中の現在を、真っ暗な長いトンネルな中にいる、というような表現で書かれている文章をよく目にします。こういう場合は、トンネルの先にあるであろう光に向かって突き進むという言い回しは、すごく的を射ています。

 では「すでに、南無阿弥陀仏のはたらきの中で生活している私」においてはいかがでしょうか。そのような状況で、光に向かいましょう、という表現はナンセンスです。それは、いま、ここで、わたしに、南無阿弥陀仏のはたらきがはたらきかけていますので、そのはたらきに気付きさえすればそれでよいからです。すでに、南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれている状況下で、光に向かう、というのは矛盾のなにものでもありません。南無阿弥陀仏を語る上で、光に向かいましょう、という表現は的外れです。いうならば、光はすでに私に届いているのですから、その光(南無阿弥陀仏のはたらき)に気付くことが大事です。

 

明かりに照らされて  感謝 感謝 

いま・ここで・わたしが 南無阿弥陀仏

手品師)

 

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私の狭い了見でモノを見る

 

私達もどこまで未来を見通す眼をもっていますかね。今さえよければいいと往々にしてなっています。また「五欲」というのは目、耳、鼻、舌、そして身。いわゆる五感です。直接的に感覚できるものに貪着したのです。逆にいえば、日ごろ私達はそれ以外のことは思いもよらないのです。自分の見たことは信じるけれども、見たことの無いものは信じない。しかし、本当は見ているつもりの目が当てにならないのではありませんか。自分の関心にひっかかることしか見えていません。自分に関心のあることしか聞こえないわけです。同じ物を食べても、そのときの状態でうまかったりまずかったりします。直接の感覚を当てにしていますけれども、実は本当に狭い範囲、薄っぺらなところしか感覚できていないということがあります。

【大無量寿経講義 尊者阿難座より起ち  一楽真  響流書房より】

 

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当てにならない自分の感覚で、物事を捉えることの危険性を知らされる内容です。生死問題のことであれば尚更です。南無阿弥陀仏によるしかないことを、あらためて知らされました。

おかげさまで  今日も南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さま ⇒ 私(私は受ける側)


私たちは普通、阿弥陀が救済の糸を垂らして、それを掴むのは私たちの努力ないし力であると考えます。しかしながら真宗においては、私たちがもともと自分に属していると考えるその力は、まったく自分たちのものではなく、阿弥陀から来ているというのです。私たちはみんな有限な存在であり、私たちのうちには、阿弥陀の救済の糸のところまで、自分で自分を引き上げる力は何もないのです。この点において、私たちは絶対的に受動的です。すべては阿弥陀から来ているのであり、私たちが本当に目覚めて救われるのは、この絶対的受動性の真実、無条件的帰依の真実を認識するその時だけです。「他力」がすべてであり、「自力」は無だという。
【真宗とは何か 鈴木大拙 佐藤平顕明[訳]P244より】

 

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ここでは、「浄土真宗の教え」について、少しばかり難しい表現(言葉)で説明されています(笑)。簡単にいいますと、日々、南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれて生活している私において、そのはたらきに気付かされた時が本当の目覚めの時(人として生まれてきて本当によかった〜)である、ということですね。阿弥陀さまに、ただおまかせ、あるのみなのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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南無阿弥陀仏につつまれて

 
南無阿弥陀仏のある生活は、やっぱり、ほっとします。みな、1日1日、一生懸命生きているわけですが、南無阿弥陀仏を知らないで終える人生は無意味ですね。やっぱり、そう思います。南無阿弥陀仏があって本当によかったな、と思うこの頃です。
おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏
 

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