手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

そのまま聞く

鳴ったものと、聞いたものは一つ。鳴ったものが、はっきりしないから、聞いたものが、はっきりしない。自分の目の前で鐘がなったら、鐘と聞こえるはず。鐘の音を鐘と聞く。
【松並松五郎念佛語録 響流選書 より】

 

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南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く。
簡単ですが、簡単ではない、というところでしょうか。私の計らいが、ハードルとなっているのでしょう。(私の計らいではなく)阿弥陀さまの計らいに依りたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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自己解決?!

仏法を聞いていくと、私は私の心を問題にするようになる。そして、だんだんと深まってくる。自分というものを考えていく。そのことを照らされるという。このようにだんだんと聞いて深まっていくと、われわれの心にピカピカの金色まばゆい大信心というものが生まれて、私より立派な存在になって、聞法した甲斐があるということになると思う。それが初心者の考えです。
【唯心鈔文意を読む 細川 巌 法蔵館 P36より】

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自分の力で、助かろう!という典型的なパターンですね。そこに阿弥陀さまの存在はありません。提示した文章は、自惚れ、自分大好き、私のプライド、自己主張を端的にあらわしています。南無弥陀仏のはたらきを気付かせていただく上で、とても高いハードルとなっています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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言葉の力

 木像とか絵像というのは、これは浄土にまします如来であり、五念門ということから言えば、これはあくまでも観察の世界です。観の対象、観察門です。それに対して、方便法身によって法性法身を出(い)だすという、こちらのほうが名号です。法性法身によって方便法身を生じたのが、木像・絵像。方便法身によって法性法身を出だしたのが、名号だと言われています。
 そこに「出だす」とありますが、これは、
   しかるにこの行は、大悲の願より出(い)でたり。(「行巻」聖典一五七頁)
ここに言われている「出」と同じです。すなわちこの出とは回向門、つまり名号は回向に属する。木像・絵像は観察に属する。それから、この法性法身によって方便法身を生ずるというところに、名号まで入れるのは間違いだ。名号は逆に方便法身によって法性法身を出だすという、回向の名号だという区別を、曽我先生は指摘されています。

(略)
 ですから、「方便法身に由って法性法身を出だす」というほうは名号、もうひとつもとに戻して言えば、つまり言葉にまでなる。言葉というのは観察の対象ではないわけです。観察という行の対象とならないものが言葉です。言葉と聞くという、つまり受け止める、聞きとるということのほかにないわけです。
 さらに曽我先生は、
方便法身というものによって法性法身が言葉になってきた。この「出す」ということは、表現ということである。「法性法身に由て方便法身を生ず」ということは象徴であり、「方便法身に由て法性法身を出す」ということは表現である。法性法身が言葉として表現される。言葉がなければ、色とか形というものが固定にしてしまう。言葉というものは、色や形が固定しないで、色や形が限りなく変化し展開してくる。それは言葉を体としているからである。もし言葉というものがないならば、色や形が固定してしまう。色や形が偶像化してしまう。それは偶像化しないということは、即ち生きた言葉があるからである。だから「方便法身に由て法性法身を出す」、その言葉というものが、われわれに真実の信心を発起せしめてくだされるのであります。
(「真宗大綱」『曽我量深』第九巻、三〇五~三〇六頁)
【〝このことひとつ〟という歩み 唯信鈔に聞く 宮城 顗 法蔵館 P156~P157より抜粋】

 

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 ここでいわれている「言葉」ですが、『南無阿弥陀仏』という言葉を意識しての内容と受けとれます。私としましては青字部分(言葉について)のところがとても共感できます。まさしく、「言葉の力」です!
 曽我量深 師のご著書をそれなりに拝読していますが、正直、難しいです。結構、挫折しています。時代背景の違いもあるでしょう。独特の表現をされていますので、なかなか入ってこない(いけない)のが現状です(笑)。
おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏

 

五念門(ごねんもん)
阿弥陀仏の浄土に往生するための行として、天親の『浄土論』に示された5種の行。
① 礼拝門(阿弥陀仏に礼拝すること)
② 讃嘆門(光明と名号のいわれを信じ、仏名を称えて阿弥陀仏の功徳をたたえること
③ 作願門(一心に専ら阿弥陀仏の浄土に往生したいと願うこと)
④ 観察門(阿弥陀仏・菩薩のすがた、浄土の荘厳相を思い浮かべること)
⑤ 回向門(自己の功徳をすべての衆生にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと)
【浄土真宗聖典 P215、P216より】

 

二種法身(にしゅほっしん)
法性法身と方便法身のこと。
法性法身とは、真如法性のさとりそのものである仏身という意で、人間の認識を超えた無色無形夢相の絶対的な真理のことをいう。
方便法身とは、衆生を救済するために具体的なかたちあるものとしてあらわれた仏身のことをいう。
 曇鸞は『論注』において阿弥陀仏の浄土の広略相入を明かす中で、「諸仏・菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」(証巻引分・註321)と述べ、両者は、法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわすという関係であり、また、異なってはいるが分けることができず、一つではあるが同じとすることはできないという関係であることを示している。
 親鸞は「唯信鈔文意」に「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて」(註709)と述べ、法性法身から、自他を分別し執着して苦慮する衆生を呼びさまし、万物が本来平等一如であるという真如の世界にかえらしめようと、かたちをあらわし御名を垂れ、大悲の本願をもって救済せんとするのが方便法身すなわち阿弥陀仏であるとする。
【浄土真宗聖典 P520より】

 

一如(いちにょ)
一は絶対不二の意。真如のこと。さとりの智慧によってとらえられたあり方で、すべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えた絶対の一であることをいう
【浄土真宗聖典 P25より】

 

大悲(だいひ)
大いなる慈悲の心のこと。
【浄土真宗聖典 P462より】

 

本願(ほんがん)
仏が因位(いんに)の菩薩であったときにおこした因本の願いという意。この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、特に第十八願を指していう。
【浄土真宗聖典 P614より】


衆生(しゅじょう)
一切の迷いの生類、すなわち生きとし生けるものすべてを指す。一般には凡夫である人間を指す場合が多い。
【浄土真宗聖典 P324,325より】

 

tarou310.hatenablog.com

 

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変な表現(重言)

  100%他力という表現がありますが、他力は、そのような表現をしなくても100%他力です。他力といっても、素直に他力と受けとることができない人が非常に多い現状から出た言い回しだと推察します。
  100%他力という表現は、頭痛が痛い、馬から落馬する、みたいな変な表現の感が否めません(笑)。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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言葉が語る

 

 「言葉が語る」は、私の金言です。
言葉には、はたらきがあるということです。大峯 顕先生が、よく話しに出されていたフレーズです。先生の「言葉に対する捉え方」にわたしも共感しています。仏教を聞けるのは、言葉を使用して生活している人間だけです。人間と動物の大きな違いは、言葉を使うか否か、というところです。阿弥陀さまは、そこに注目されて「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉に、(阿弥陀さまの)命を込められたのでしょう。そのことを、伝える手段も、やはり言葉です。
 わたしのモットーは、「いかに簡潔な文章で分かりやすく物事を伝えるか」です。日々、言葉に拘りをもって生活しています。よい言葉や文章に出合えば、その都度、スマホのメモ書きに入力保存して読み返しています。また、最近では読解力向上のため、地方紙のみならず全国各誌に目を通し、素晴らしい言葉や文章との出合いの機会を広げています。

 私の言葉に対する拘りの背景に、ひとりでも多くの方に「南無阿弥陀仏のはたらき」に触れてほしい、というところがあります。とりわけ、身近な家族(妻、娘)においては、尚更です。そのためには、「より分かり易い言い回し」や「表現の工夫」が必要です。ですので、私としては(自身の)言葉力、文章力、表現力の鍛錬は必須だと考えています。
 早いもので、このブログを始めて丸10年となりました。引き続き、お遊び感覚といえば語弊がありますが、肩の力を抜いて、私自身気楽に、このブログ(手品師ブログ)を楽しみたい、と思っています。

仏法ひろまれ〜   響け 〜  届け〜

 

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唯除の心

 

   親鸞聖人は、「一闡提」を非常に問題にされます。その「一闡提」というのは、「愁悩を生ずる者なし」(「信巻」聖典二〇九頁)、悩みを生ずることのない者ということです。その一闡提に応えるものが「唯除の文」なのです。この「唯除の文」については『尊号真像銘文』に親鸞聖人の釈があります。
「唯除五逆(ゆいじょごぎゃく) 誹謗正法(ひほうしょうぼう)」というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十法一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。(聖典五一三頁)
   そこに「唯除というは、ただのぞくということばなり」とあります。「のぞくこころ」ではないのです。除く心は、切り捨てる心です。そこに「ことば」と言われていますが、これは大河内了悟先生の言葉ですが、「ことばというのは、その除けない心で除くということばなんだ」と言われました。つまり、おまえなんか勘当だというその叫びには、悲しみ、怒り、そういうようなものがこもっていて、見捨てることのできない心で叫んでいるというのです。
   次に、「誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十法一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」とあり、その知らせんとする叫びだということです。そのことは、さらに言いますと、「唯除の心」というのは、その本人より先にその本人のあり方を深く悲しむ心なのです。勘当というのは、その息子より先に息子の心を悲しむ、息子の生き方を悲しむ心なのでしょう。
【〝このことひとつ〟という歩み 唯信鈔に聞く 宮城 顗 法蔵館 P109、P110より】

 一闡提(いっせんだい)
世俗的な快楽を追求するのみで正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することができない衆生のこと。浄土教では、これらの者も回心すれば浄土することができると説く。
【浄土真宗辞典 P34より】

誹謗正法(ひほうしょうほう)
略して誹謗ともいう。仏の教えをそしり、正しい真理をないがしろにすること。五逆罪より重い罪とされる。
【浄土真宗聖典P562より】

五逆罪(五逆)
5種の重罪のこと。①父を殺すこと ②母を殺すこと ③阿羅漢を殺すこと ④仏の身体を傷つけて出血させること ⑤教団の和合一致を破壊し、分裂させること
【浄土真宗聖典P200より】

 

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ここでは、「唯除の心」について勉強させていただきました。「勘当」ということを引き合いに分かりやすく説明されています。「唯除の心」に、阿弥陀さまのとても深い御心が伺うことができます。もっと平たく言いますと、阿弥陀さまの私に対する愛情、やさしさを感じます。だれもが、その御心に応えたいものです。そして、その応える術(すべ)もすでに用意されてくれています。それが「南無阿弥陀仏」なのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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一水四見(いっすいしけん)

 

仏教には「一水四見」という言葉があります。人間にとっては水ですが、魚にとっては住みかに、天人には宝石に、餓鬼には炎に見える。同じものでも立場や境遇によって、まったく違った見方をするという教えを表しています。
【大人の読解力を鍛える 齋藤 孝 幻冬舎新書 P65より】

 

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では、「南無阿弥陀仏」についてはいかがでしょうか。
魔よけのことば? 死んだ人に唱えることば? 試験に合格するための祈りのことば? 阿弥陀さまへの報恩感謝のことば? その人によって様々です。
阿弥陀さまと私の会話のことばでありたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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