手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真と偽

 

  以前、加藤唐九郎の焼物の偽物の記事が、新聞紙上をにぎわせていました。専門家でもだまされるほど、本物とそっくりの偽物だったそうです。世の中には手の裏表のように本物もあれば偽物もあるのが常ともいえます。ところで、私たちは、本物と偽物とを峻別する目をどのようにして持ったらよいのでしょうか。

 ある先生からお聞きした話です。昔のことです。

 大阪のある骨董屋(こっとうや)では、使用人の丁稚(でっち)に最初の二年ほどは、便所掃除と共に、修行のため本物ばかりを見せるそうです。二年間の修行の後に本物そっくりの偽物を見せるのだそうです。そうすると、本物・偽物の峻別は見事につくそうです。ところが、最初から本物や偽物を交互に見せると峻別できなくなってしまうそうです。

 私はおもしろい話だなと思いました。宗教の世界も同じではないでしょうか。

 何が本物で、何が偽物の宗教かを見分けるには、やはり、まず本物の教えに出会わなければならないでしょう。ところが、私たちは二度とくり返しがきかない、たった一度のいのちを生かすべき本物の教えに出会っているといえるでしょうか。

【正信偈(しょうしんげ)62講 中村 薫 法蔵館  P19、P20より】

 

最初で最後の人生です。

本物の教えに出会っている人生となっているでしょうか。このいま、本物の教え(南無阿弥陀仏のはたらき)に出会っているか否か、とても大事なところです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

生きる意味

 

 高松信英先生が、心理学のマンガの本から次のような興味ある話を紹介しておられました。

 中三の男の子が、お母さんに「どうして一流高校へ行くのか」と尋ねた。お母さんは「一流大学に入るために決まっているでしょう」と答えた。また、子どもが「なぜ一流大学に入るのか」と聞くと、「一流企業に入れるから」と答える。子どもは「じゃ一流企業に入ってどうするのか」と尋ねると、「一流企業の重役になれればすばらしいじゃないか」と答える。子どもが「でも重役になっても死んじゃえばね」というと、「それは誰でも死ぬけど、一流の重役で死ねば、お葬式の時、花輪がズラーと並んで盛大なお葬式をしてもらえるよ」と答える。子どもは「ああ、やっとわかった。僕が勉強して一流高校へ入るのは、死んだ時の葬式の花輪をたくさん並べるためだ」といったという。    

 少なくとも、勉強するのは、死んだ時の花輪のためではないでしょう。しかし、ともすると、この親子のようにそうした生き方をして、人生の意味を見失っているのが現代に生きる私たちの姿かもしれません。

【正信偈(しょうしんげ)62講 中村 薫 法蔵館  P13より】

 

この話(青字部分)を聞いて、笑えますか?!  同じ穴の狢 (むじな)ではないでしょうか。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

本物が際立ち鮮明になる

 1980年代に宗教史研究を始めた我々は、網野善彦による網野史学の影響を受けた方法で研究を行うようになりました。

 網野先生は、おそらく日本で初めて偽文書を駆使した歴史研究を行った方です。それ以前は、歴史学において偽文書は「危ない」史料であるとして絶対に使いませんでしたが、網野先生の場合は、「偽札があったらその偽札に似たお札が流通していたはずであり、偽札も史料として使いようがある」といった考えで、歴史学の新たな像を切り開こうとしました。

 こうして、偽物だとわかった時点でその史料を投げやるのではなく、史料の位置づけを吟味したうえで、読み取れることを掘り出し、歴史の新たな一面を切り拓く方向へと研究は進んでいます。

【親鸞 浄土真宗の原点を知る 河出書房新社 P3より】

 

 今回は、アプローチを変えての投稿です。偽物であるとわかっても、すぐに切り捨てるのではなく、偽物の背景に何があるのか、を研究することは意義があることだ、と思いました。本物は、偽物とのギャップを研究・調査することで、より際立ち鮮明になると思います

 何が言いたいかと申しますと、同じ「浄土真宗」の看板を掲げていても、本物と偽物が混在している現状があります。それら(本物と偽物)を比べることで、より本物があきらかになるのではないでしょうか。本来の教えにはない「間違い」を見極めたい、ものです。この文章を読んでいて、そのようなことを思いました。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

人生の分かれ目

 

 人生にさまざまな障碍(しょうがい)と挫折はつきものである。この世に生まれてきたかぎり、労と病と死と、愛するものとの別離と、憎しみあうものとの出会いを避けて通ることはできない。誰しも平穏無事な先活を願わない者はないが、平穏無事に生きられるようにはできていないのが人の世である。神に祈願しようが、仏に祈りをささげようが、逃げることも避けることもできない怖しい出来事に遭遇することもあるし、どうしようもない苦悩に責めさいなまれることもある。どんなに注意深く生活していても、何が起こって来るかわからないし、また何が起こって来ても不思議でないのが人生なのである。

 ただ、その障碍と挫折の苦悩が、空しい繰り言(ごと)の材料として終わってしまうか、それとも苦難と危機を、人生を超えた真実を味わい確認する機縁となるように生かしていけるか否かが人生の分かれ目になるのである。

【精読・仏教の言葉 親鸞 大法輪閣 梯 實圓 P146より】

 

 何が起こるかわからないのが人の世(人生)です。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、悲しいこと、苦しいこと、つらいことなどの苦難に遭遇したとき、真実(南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされていること)を味わい確認する機会となります。真実(南無阿弥陀仏のはたらき)に気付くか否か、人生の大きな分かれ目です。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏。        

心は明るい

 

蓮如さまは、教えられた。「『私は、阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあったから(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたから)もう阿弥陀如来に助けられた者だ』と言うのは、この世で悟りを開いて仏になるという、偉い人の悟りの仏教とまぎらわしいからよくない。素晴らしい阿弥陀如来の心とめぐりあったのだから、助かったことには間違いないが、私たちが『助かった』と思うと、すぐに私は偉いんだぞ、という迷いの心を離れることができないから、『必ず助かる身にさせていただいた』と言うのが正しい」と。そして、「私たちが、阿弥陀如来の明るい眼に(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ)頭が下がったとき、もう二度と迷いの世界に戻らない身にさせていただく。外から見れば、今までと少しも変わらない姿で生活しているのだが、心の世界はもう明るい。これは自然の道理である。言い換えれば、釈尊の悟りの境地(涅槃)なのだが、私は悟りを開いたなどと言わないだけである」と教えられた。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 高松信英 法蔵館 P126(●204 「形は変わらず、心は明るい」)より】

 

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人とそうでない人の違いは、心の世界が明るいか否か、です。歳をとって外見が変わろうが、心は明るい。それは、このいま、南無阿弥陀仏にめぐりあえているからです。本当にありがたいことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 

 

浄土真宗のお念仏

 

蓮如さまは、「この世の常識の世界では、南無阿弥陀仏の六字の名号を、不思議な超能力を持つ言葉だから、その言葉を仏、菩薩、天人に差し上げて、自分の善き行ないにしようとする。親鸞さまの教えをいただくものは、そうであってはならない。もしこの南無阿弥陀仏が私の作ったものならば、仏、菩薩に称えてあげることもできるだろうが、南無阿弥陀仏はそのようなものではない。この目覚めた人からの贈り物、南無阿弥陀仏にめぐりあい、阿弥陀如来の明るい世界を知り、私の人生はこれしかないと、文句なしに頭が下がるならば、素晴らしい人生が始まる。その嬉しさのあまり、有り難う、有り難うと、お礼を申すのが浄土真宗のお念仏なのだ」と教えられた。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 37  高松信英 法蔵館 P32より】

 

目覚めた人からの贈り物、つまり、「南無阿弥陀仏のはたらき」のことですね。贈り物といっても、「はたらき」ですので色や形はありません。「南無阿弥陀仏のはたらき」を知らされた(知らされている)人は、自然とお念仏(南無阿弥陀仏)が口からこぼれ出ます。ありがたい、ことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

人は何のために生きるのか❓

 

 浄土真宗に関心のある友人に「死んだ先はどんなところだと思うか?」と尋ねました。「真っ白な世界、無の世界だと思う」と答えられ、「親鸞さまの教えはもっと確かな教えなのにもったいない・・・・・・」と思いました。その後、同じ質問をほかの人たちにもしたところ、ほとんど同じような答えが返ってきました。

 何のために人と生まれてきたのでしょうか。まよいの世界からさとりの世界に乗り換えるため、仏さまに(成)る、「成仏(じょうぶつ)」するためです。お釈迦さまの教えを信じる人は、人間の身体がなくなって完全なさとりに入り仏さまになります。仏さまはまよいの人びとを救うことが仕事ですから、成仏したら苦しむ人びとを救う仕事があります。すると、仏さまになったら「はたらき」となって、浄土からこの世に戻ってきて人びとを救うことになります。

【やさしい仏教の話 桜井俊彦 法蔵館 P86より】

 

お釈迦さまの教えを信じる人」とは、浄土真宗の教えでいえば、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人」ということです。「死んだら仏」という言葉がありますが、それは、あくまでも「このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人が亡くなったら」という大前提があります。とても大事なところで、誤解がないようにしたいです。

そして、タイトルの

「人は何のために生きるのか❓」ですが、

ズバリ、

「仏に成るため(成仏するため)です」

実に明快です。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏