手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

灰    🌺金子みすゞ(3)

 

花咲爺さん 灰おくれ
笊にのこった 灰おくれ
私は いいことするんだよ

 

さくら もくれん 梨 すもも
そんなものへは撒きゃしない
どうせ 春には咲くんだよ

 

一度もあかい花咲かぬ
つまらなそうな 森の木に
灰のあるたけ撒くんだよ

 

もしもみごとに咲いたなら
どんなにその木はうれしかろ
どんなに私もうれしかろ

【金子みすゞ大全集–生誕100年記念–(朗読CD)第六巻より】

 

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歎異抄にでてくる「悪人正機」という言葉が思い浮かびます。

「私」は、阿弥陀さま。

「森の木」は、悪人。

「さくら ・もくれん・ 梨 ・すもも」は、善人さま。

阿弥陀さまのお慈悲は、いま苦しんでいる人により深くはたらきかけるのでしょう。

 

 

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蓮と鶏   🌺金子みすゞ(2)


泥のなかから 蓮が咲く
それをするのは 蓮じゃない

 

卵のなかから 鶏がでる
それをするのは 鶏じゃない

 

それに私は 気がついた
それも私の せいじゃない

【金子みすゞ大全集–生誕100年記念–(朗読CD)第六巻より】

 

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すべて、阿弥陀さまのお計らいなのでした。みすゞさん自身、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされて詠った詩なのでしょう。

 

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さびしいとき    🌺金子みすゞ(1)

 

私がさびしいときに
よその人は知らないの

 

私がさびしいときに
お友だちは笑うの

 

私がさびしいときに
お母さんはやさしいの

 

私がさびしいときに
仏さまはさびしいの
【金子みすゞ大全集–生誕100年記念–(朗読CD)第六巻より】

 

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阿弥陀さまとみすゞさんは、一心同体なのでしょう。つまり、一心同体南無阿弥陀仏。阿弥陀さまは、いつも、わたしに寄り添っておられるのでした。ひとりぼっちではありません。

 

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お悔やみ欄

 

   義理の兄は、地元紙をとっている大きな理由に、お悔やみ欄が充実していることを挙げた。新聞記事の内容に目を通さなくても、お悔やみ欄だけは必ずチェックしてから仕事に出かけるとのこと。以前、香典をもらった本人やその身内に滞りなくお返しをするため、だという。
 お悔やみ欄をみていると、まだ若い20代の名前が載っていたりする。先日は、2歳の男の子の名前があった。この世は、老少不定の世界であることをあらためて思い知らされた。
 誰もが、南無阿弥陀仏の世界にふれてほしい、と願うばかりだ。
 おかげさまで 今日も南無阿弥陀仏


老少不定
人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということ。
※goo辞書(三省堂新明解四字熟語辞典)より

 

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自分のことになって響く

 

  最近ある自治体から、日々の歩数を記録する健康事業の参加者が、コロナ禍で増えたという報告がありました。新型コロナウイルスの感染に注意することで、健康への関心を高めたことが一因だと考えられます。

  「無関心層」に向けて健康情報を発信し、健康リテラシー(理解力)を上げ、健康にプラスになる行動につなげることは簡単ではありませんが、繰り返し耳にした情報が、なにかのきっかけで自分のことになって響くことがあるようです。

【朝日新聞 令和2年6月20日(日)付 30面 新型コロナより抜粋】

 

 

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 なんかピンときませんか?

「南無阿弥陀仏」のはたらきを語る上で、参考になる文章といいますか、重なる部分があるなぁ〜、と思いました。この文章を、私なりに「南無阿弥陀仏」目線で言い換えてみました。

「近親者などの死を目(ま)の当たりにしたことで、いずれ私(自分)も死んでいかなければならない、ということがより現実味を増しました。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・私に、はたらいています。ですので、遅かれ早かれ、南無阿弥陀仏のはたらきは、私の心に響くのです。」

 

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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月明りに照らされて

 

  親鸞聖人のよき人、恩師である法然聖人は、

  月影のいたらぬ里はなけれども
  眺むる人の心にぞすむ

と詠われました。

 月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味です。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことです。

 親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「『聞(もん)』といふは、衆生(しゅじょう)、仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞(き)きて疑心(ぎしん)あることなし、これを聞(もん)といふなり」(註釈版聖典251ページ)と示されています。

【本願寺新報 2016(平成28)年10月10日号掲載より】

http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/min161010.html

 

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 夜道を歩いていて、ふと空を見上げると、満点の星空に出くわすことがあります。「なにかのきっかけで、ふと、夜空を見上げる」ありそうで案外ありません。私自身、星空を見たい!と意識しない限り、空を見上げることはそうそうありません。自分の目の前のことしか意識がいっていないからでしょう。
 月明かりが眩しいと、自ずと夜空を見上げてしまいます〜。特に、満月の夜は。

 

月明かりに照らされて
感謝  感謝
いま  ここで   私が
南無阿弥陀仏

 

どこかで 聞いた フレーズです(笑)

 

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仏願の生起本末を聞く

https://tarou310.hatenablog.com/entries/2011/09/14

思いやり・やさしさ故に

 

f:id:tarou310:20200606060355j:plain【2020年6月6日(土)朝日新聞(朝刊) ひと(2面)より】

 

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本日の朝日新聞(朝刊)の記事からです。
「供養が死者の慰めになるのは勝手な満足。でも死者の思いに引かれて参らずにはおれんのです」
という部分は、「恵信尼消息」に記されている親鸞聖人のある(下記)出来事と重なります。

『今から17、8年前、やはり飢饉の時に「衆生利益」(天候の回復・飢饉の終息の祈願)のために「浄土三部経」を千部読もうと思い立ち、数日間は実行したものの、本願の念仏をみずからが信じ、また人にも教えて信じさせることこそが本当の意味で人々を助け、また仏様の恩にも報いる道であると信じながら、いったい何が不足で自分は経を読もうとしているのであろうか。読経という善根を積んでその功徳を衆生利益のために振り向けるということ自体が、あたかも自分の読経が衆生に利益をもたらし得るほどの善行である、言い換えれば自分が善を行じることできる者である、という自分と自分の行為への過信(「自力の執心」)ではないのか。』と思い返して止めたことがあった。しかし、今回の大飢饉を前にして、人々を無為に死なせたくないと思うあまり、知らず知らずのうちにまたしても自分は読経の力にすがろうとしていたのであろう。
【西念寺だより 専修』第36号〈2011年6月発行〉より】
http://www.sainenji.net/live1106.htm

 

恵信尼消息(3) 《現代語訳》

 親鸞聖人は、 寛喜(かんぎ)三年四月十四日の正午頃から風邪気味になり、 その日の夕方から床につかれてひどいご様子であったのに、 腰や膝もさすらせず、 まったく看病人も寄せつけず、 ただ静かに横になっておられましたので、 お体に触れてみると火のように熱くなっておられました。 頭痛の激しさも、 普通ではないご様子です。
 さて、 床につかれて四日目の明け方に、 苦しそうな中で 「これからはそうしよう」 と仰せになったので、 「どうなさいましたか。 うわごとを仰せですか」 とお尋ねしました。 すると聖人は、 「うわごとなどではありません。 床について二日目から、 無量寿経(むりょうじゅきょう)を絶え間なく読んでいました。 ふと目を閉じると、 経典の文字が一字残らず光輝いてはっきりと見えるのです。 さてこれは何とも不思議なことです。 念仏して浄土に往生すると疑いなく信じることの他に、 いったい何が気にかかるのだろうと思い、 よくよく考えてみると、 今から十七、 八年前に、 人々を救うため、 心を込めて浄土三部経(じょうどさんぶきょう)を千回読もうとしたことがありました。 けれども、 これはいったい何をしているのか、 往生礼讃(おうじょうらいさん)に、 自信教人信難中転更難(じしんきょうにんしんなんちゅうてんきょうなん)〔みづから信じ、 人を教へて信ぜしむること、 難きがなかにうたたまた難し〕といわれているように、 自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることが、 まことに仏の恩に報いることになると信じていながら、 名号を称えることの他に何の不足があって、 わざわざ経典を読もうとしたのかと、 思い直して読むのをやめました。 今でも少しそのような思いが残っていたのでしょうか。 人が持つ執着の心、 自力の心は、 よくよく考えて気をつけなければならないと思った後は、 経典を読むことはなくなりました。 それで、 床について四日目の明け方に、 これからはそうしようといったのです」 と仰せになり、 間もなく汗をたくさんかいて回復されたのです。
 浄土三部経を心を込めて千回読もうとされたのは、 信蓮房が四歳の時で、 武蔵の国か上野の国か、 佐貫というところで読み始めて、 四、 五日ほどして思い直し、 読むのをやめて常陸の国へ行かれたのです。信蓮房は未(ひつじ)の年の三月三日の昼に生れたので、 今年で五十三歳になるかと思います。
弘長三年二月十日 恵信

※信蓮房(親鸞聖人の第4子)

 

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 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまに対する「報恩感謝」、簡単に言いますと「ありがとうございます!」のお念仏なのでした。お念仏(南無阿弥陀仏)は、決して、先祖供養のために唱えて勝手に自己満足する類(たぐい)のものではない、という点はしっかりおさえておきたいところです。
おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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