手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のはたらきに包まれて

 私たちが人間商売やっているのはほんのしばらくの期間です。人間の一生は今晩でおしまいかも分かりません。仏法を聞くとき、自分は明日も明後日もいると思っていたら、仏法は心に入らないでしょう。来年もまた永代経に参れると思って聞いているから駄目なんです(笑)。今日のこの場しか聞く時はない、今ここで、如来様に抱かれていることがわかる。これが仏法です。永遠の命との出会いというものは、この現在にあるのだと仏様は教えてくださるのです。いつ死ぬか知れないと思って生きて行けと、そんな不自然なことを言っているんじゃありません。そうではなく、私の命は決して私のものじゃない、私を超えた不思議な大いなる力によって人間として生まれ、現に生かされているのだ。そのことの尊さ、有難さというものに驚かなくてはならないということです。これは自分の命を神経症的に心配して生きるということの正反対です。
 法然上人は、人間の命は食事の時むせて死ぬときもあるのだから、南無阿弥陀仏と一緒に噛んで、南無阿弥陀仏と一緒に呑みこみなさいと、実に具体的に教えておられます。ご飯の時間は、仏法はちょっと休憩じゃなく、ご飯を食べるときでも仏法というものはすこしも私たちを離れていないということです。人の命は食事のときに死ぬこともあるのだから、南無阿弥陀仏を忘れてはならない。厳しい人間の命の現実をずばりと言われた、聖者の言葉です。
【『歎異抄』第十二条 教学は何のためか 大峯 顕 百華苑 P35〜P37より】



生かされている命、そのことに気付かせて頂くチャンスはこの今です。
この今を大事にしたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏