手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

様々な捉え方

 先日の報道で、聖火ランナーが手にしたトーチの火が消え、傍にいた警備員がライターで火を点け直したシーンが放映されました。本来であれば、ギリシャアテネで採火した火種で対応するそうです。
 今回のシーンを見て、いろいろな意見があるようですが、いかがでしょうか。
 火といっても、捉え方によっていろいろな意味合いがあります。暖房・目印・調理・エネルギー・照明等、人類に恩恵を与えてくれる一方、二酸化炭素発生による大気汚染・火災による物的損害等、不幸をもたらす一面もあります。今回の事例は、火はシンボル的な役割を果たしているといえましょう。
 では、南無阿弥陀仏はいかがでしょうか。
死んだ人のための供養の言葉、怖さを紛らわす呪文的なもの、受験合格のための祈願的な意味合い等、と様々です。
 しかし、それも阿弥陀さまがすべて意図されたことでしょう。本来の南無阿弥陀仏の意味合いとはいきませんが、着実に阿弥陀さまのお育てに預かっていることは間違いありません。南無阿弥陀仏というお念仏が、自分の口からでてくること自体、本来有り得ないことです。やがて、その南無阿弥陀仏は自ずと「どうもありがとう」のお念仏になるのです。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏という壮大なおはたらきによって。