手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏のみぞまこと

私たちは、善にせよ悪にせよ、これが悪であり、これが善であると断定できるだけの、十分な智慧を所有しているのであろうか。悪と見えることが長い過程のなかで善に転じることもあり得る。その逆に、善であると思っていたことが結局は悪をもたらすだけにとどまる、ということもあり得よう。私たちは善悪をもたらす因果の総体を知る智慧もなく、多くの場合は、目先だけの、しかも自身の利害にもとづく判断であることが少なくない。このように、善悪にかぎっても私たちの判断は、まことに勝手でたよりないものではないか。


善悪だけではない。およそ、凡夫の私と、その私が生きている世界においては、すべてが「そらごと、たわごと」であり、「まことあること」がないではないか。それはひとえに偶然と必然のすべてを知る智慧が私に欠如していること、世界の無常を超える智慧を知らないことに原因があるのであろう。そうした限界を知れば知るほど、唯一真実であるのは「念仏」だけだということが歴然としてくるではないか。これが、親鸞のいわんとすることである。
 

それにしても、「念仏のみぞまことにおはします」という述懐は深い。阿弥陀仏がまことだというのでもなく、仏教という教えが真実だというのでもなく、たた「念仏」だけが真実だという。「念仏」とは、阿弥陀仏が私のなかではたらく姿である。凡夫の私の称える念仏ではあるが、それは阿弥陀仏のはたらいている姿である。仏のはたらく姿である以上、それは真実というしかない。凡夫の一切の営みは虚仮不実ではあるが、念仏だけは仏のはたらきなのであるから、真実と仰ぐしかない。虚仮不実の身でありながら、「念仏」を通して、その身に真実が開かれてくる。一見、矛盾と見えるが、だからこそ凡夫にとって「念仏」は仏になる唯一の道となるのである。
【歎異鈔 阿満利麿 ちくま学芸文庫P261,P262より】



『念仏のみぞまこと』 私の好きなフレーズです。
力強さが漲っています。 安堵の気持ちが沸きあがってきます。   
今日も南無阿弥陀仏