手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

弥陀のおんいのちの真ん中だった

 分別が分別をして出離なし 無分別智の弥陀のよび声
「分別で分かって称えるのでなく、分からぬからこそ、いずれにも心のゆくべき道がないからこそお念仏するのですよ」
「自力の念仏とか、他力の念仏とか、そんなこと考えていることが十九の願です。十九の願にも入っていないのです。小さな私の分別心が、まだまだ中心です。これを邪見憍慢の悪衆生と仰せになっているのです」
 二十願の念仏を、自力の念仏とか、半自力半他力の念仏とか、罪福心の念仏とか言われるが、そんなことは機法一体の十八願に還った人が分かるので、そんなことをいくら覚えても、何の役にもたたず、分別の流転輪廻で、かえって、邪見憍慢心を増長させることであろう。
 「時節到来」のお言葉があるが、これは私のほうからは如何ともできないことを言う。第十八願然りである。いつかお念仏も間に合わぬ日が時節到来である。これを「果遂の誓」と仰せになっている。ともかく私たちに許されることは「行き詰まったらお念仏」「行き詰まったらお念仏」。
 十八願は、向こうに行くのかと思っていたが、二十年の修行でも前進できず、いくらお念仏しても前進できずほんとうに上げも下げもできぬところに「弥陀の廻向の御名なれば、功徳は十方にみちたまう」行き場所を失ったところが、弥陀のおんいのちの真ん中だったということである。
【藤原正遠講話集 第三巻 法蔵館 P99、P100より】



私のはからいを超越している南無阿弥陀仏を、私がいくら計らっても計らいきれるものではありません。
自分に向くのではなく、阿弥陀さまに向かわせて頂かねばなりません。
阿弥陀さまに向かう」といっても、自分から阿弥陀さまに「なんとか助けてください、なんとか救ってください」とお願いするのではありません。
『弥陀のおんいのちの真ん中だった』と教えてくださっていますように、すでに南無阿弥陀仏はひとりひとりに届けられています。
その南無阿弥陀仏のおはたらきを気づかせて頂く、ということです。
また、「時節到来」とありますが、遅かれ早かれ、(南無阿弥陀仏を)聴いているうちに(南無阿弥陀仏と)聞こえてくるのです。
遅かれ早かれといっても、『このいま』に越したことはない、ですよね。