手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

目覚め

縁が熟して、阿弥陀仏の本願という「物語」に納得できるようになると、「宿業」に縛られたまま、私は「完全な存在(「仏 )」に向かって歩み始める 。つまり、「宿業」という束縛から、自由になるのだ 。その自由とは、束縛がなくなるという意味ではない 。生涯 、「煩悩 」からは逃れることができない人間であるから 、自己愛に発する束縛は続く 。しかし、その束縛を恐れなくなる 。どのような束縛に出遇っても、たじろがずに引き受けて生きてゆける 。それが「凡夫 」にとっての自由な生き方、という意味だ 。こうなってみると、今までの人生とは著しい違いが生まれてくる 。一つは 、束縛としか感じられなかった「宿業 」が、今の「私」を「私」たらしめている無数の縁であったと肯定されてくる 。かつては 、自分には不都合で承服しがたい人物であり、ことがらだと切り捨ててきたものが、今の私をつくる縁であった、と了解できる 。文字通り、逆縁もまた縁であったのだ 。もっといえば、「因 ・縁 ・果」の巨大な網の結節点として、「私」が関係性のさなかに生きていることが実感されてくる 。
【行動する仏教 法然・親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】



南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、その後の人生の根底は大安心ということです。日々の喜怒哀楽といった感情や運不運は変わりませんが、「生きてよし死んでよし」の心境になります。言い換えますと、「阿弥陀さまにおまかせ状態」ということです。煩悩は変わりませんが、心の底にはビシッと末通った安心感があります。「南無阿弥陀仏」のお念仏がその具現化されたエビデンスであります。そのお念仏は、阿弥陀さまに対する報恩感謝であり、阿弥陀さまと私の言葉のキャッチボールでもあります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏