手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

善知識も同朋の一員にすぎない

 問題は、集団が堕落していようがいまいが、私が自らの救済をどのように実現するかであろう。私の「生死からの出離」を実現するうえで、どうしても堕落した教団が邪魔だとなれば、それから離れればよい。教団とは無縁の救済論も存在するのであるから。
 大切なことは、信仰者たちがどのような原理にもとづいて集団を形成しているのか、ということであろう。教祖を崇拝するために組織をつくっているのか、集金マシーンを目指しているのか、等々。
 『歎異鈔』の場合、人々が集団をつくったのは、信心の相続のためであろう。序文にもあるように、『有縁の知識』に出逢うために、人々は集まり、そして本願のいわれを「聞く」ことに専心したのである。
 しかも、その「善知識」も、同朋(どうほう)の一員にすぎない。けっして特別の存在ではなかった。なぜならば、「善知識」という先達者であっても、ほかの同朋と同じように、その信心は阿弥陀仏からたまわったものであるからだ。本願念仏においては、信心はすべて阿弥陀仏から差し向けられたものであり、信者の努力・精進の結果、獲得されたものではない。ここに、本願念仏者たちによる信仰共同体の、本質的な平等性がある。
無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】



ここでもいわれていますように、
『信心』はすべて阿弥陀仏から差し向けられるもの、とあります。「すべて」です。
あと、「善知識」と「教祖」の違いを明確にしておく必要がありますね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏