手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

世間虚仮、唯仏是真

 ここが大切ですから再度、私は繰り返して学生に説明しました。
もう一度、話したことを思い出して欲しいですね。迷いの凡夫から見れば世間は二元論に見ることが出来ます。「悟りの世界」と「迷いの世界」の二つですね。しかしこれが「悟りの世界」に至ったならば一元論になるのです。悟りの世界から見れば「迷いの世界」はありません。これは当然でしょう。転迷開悟(てんめいかいご)、すなわち「迷いを転じて悟りを開く」とはここをいうのです。そうすると「悟りの世界」こそが真実であって、「迷いの世界」とは「虚しい仮の世界」だということがわかるでしょう。悟りの世界が真実であることがわかった時、迷いの世界が虚仮の世界であるということもわかるでしょう。だから私は、仏典は「鏡」だと思っています。真実の世界に照らされて、初めて迷いの世界の状況に納得できるからです。この世は「諸行無常の世界」=「虚仮の世界」であるということが理解できるには、真実の世界の状況を知って初めてそれがわかるのです。だから、悟りの世界が「鏡」なのです。ところが、自分の経験内のみが真実だと信じて疑わない者にとっては、迷いの世界の虚仮性は理解できません。迷界を真実の世界だと思っているからです。そこで、経典にはこれを指して「顛倒(てんどう)」といっています。ひっくりかえって物を見るという意味ですね。まったく逆の見方が正しい見方だと勘違いしているのです。ここを聖徳太子は、「世間(迷いの世界)は虚仮であり、仏の世界(出世間)こそが真実である」という意味で「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」といわれたのです。俗世間(迷いの世界)は虚しい仮の世界であり、ただ仏(の世界)のみが真実であるという意味です。ここをもって親鸞聖人は、真実の世界こそお念仏の世界だと味わわれ、「よろづのこと、みなもって、そらごとたわごとまことあることなしに、ただ念仏のみぞまことにておわします」といわれたことは有名なことです。    略


 ところで、私たちは普段自分の人生を自分で「生きている」と思っているでしょう。皆さんは「生かされている」とは気づいていないと思います。ここに一般的見方と宗教的見方の違いがあると、私は思っています。「生きている」と思うのは、俗世間的な視点で考えた見方です。先ほどの二元論でいうと、「迷いの世界」での視点ですね。
ところが、「生かされている」ということは出世間的な仏の世界に照らされて物を見る事ができた見方だと思います。普段、自分の人生は自分で生きているとしか考えませんが、「お念仏の世界があるよ」「仏さまの世界が真実の世界なんだよ」とわかった時、今までは「自分が生きている」と思っていたのですが、「自分で生きているんじゃない、仏さまの手のひらの中で生かさせて頂いているんだ」とわかるのです。このように、迷いの世界に視点を置いて世の中を見るか、悟りの世界に照らされて世の中を見るかで、まったく逆な見方ができるのです。「生きているんじゃない、生かさせて頂いているんだ」と思えることは、視点の大きな転回です。ここに宗教的見方のすばらしさがあるのです。悟りの世界に照らされて世の中を見ること、それを宗教的見方というのです。
【生かされて生きる  浅田正博  探究社 P40〜P42より】



津軽地方は来月中旬を過ぎると雪が降ります。
わたしは「また冬が近づいて嫌だな〜」と思います。一方、ウインタースポーツを好む人は、「早く雪が降り積もらないかな〜」と待ち遠しいことでしょう。
「どの視点にたって物事をみるか」で捉え方は180度違います。
南無阿弥陀仏も然り。
阿弥陀さま視点か、それとも自分視点か、で全く捉え方が異なります。
今日も南無阿弥陀仏。