手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏願の生起本末を聞く

親鸞聖人は、先の「その名号を聞いて信心歓喜する……」との本願成就文について、『教行信証』(「信巻」)に次のように説明しておられます。


経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなわち本願力回向の信心なり(『註釈版聖典』二五一頁)


すなわち「名号を聞く」ということは、「仏願の生起本末を聞く」ということと同じであるということです。名号は本願成就の名号であり、誓いのみ名ですから、名号のいわれを聞くことと、本願のいわれを聞くこととまったく同じことです。


それでは「仏願の生起本末を聞く」とは、どういうことなのでしょうか。


まず「仏願の生起」とは、なぜ阿弥陀如来の本願が起されなければならなかったのか、ということです。それは親鸞聖人が和讃に、「如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして……」とうたわれていますように、苦悩の有情といわれる煩い悩みからはなれられぬ私(煩悩成就の身)がいるからです。すなわち、仏に成るのに間にあうほどの清浄な心もなく、真如にかなうほどの真実心もない、縁があれば何をするかわからぬ私がまぎれもなく存在するから、如来の誓いが発されたのです。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり(『註釈版聖典』八五三頁)


という『歎異抄』の述懐は、このことを告げておられるものであります。


次に「仏願の本末」とは、どういうことなのでしょうか。すなわち「本末」とは、物事のはじめと終わりの意味で、「本」とは、はじめに阿弥陀如来法蔵菩薩であられたとき五劫という永いあいだ思惟され兆載永劫という久しいあいだ修行されたことをいいます。
さらに「末」とは、その永い思惟と修行によって煩悩成就の衆生を必ず浄土に往生させ、成仏させる必須条件を具足する名号を成就して、そのことを生きとし生けるものに呼びかけ、回施しつつあることをいいます。


それでは、「聞く」とは、どういうことなのでしょうか。『漢和辞典』によると「往くを聴といい、来るを聞という」とありますから、「聴」はこちらから向こうにはたらきかけて〈きく〉ということであり、「聞」とは、向こうからのはたらきで〈きこえる〉ことである、という意味になりましょう。
また、経典によりますと、「聞光」とか「聞香」という言葉があります。光は目で見るもの、香は鼻でかぐものですが、聞くと表現するところに、光や香のはたらきをそのまま味わい、受けとっていくこころが込められているのでしょう。


「聞」の世界は、このように如来のまことのはたらきを、はたらきのままに素直に受けとることをいうのです。「如来の仰せが聞こえた」とは、如来のまこと、すなわち本願名号のいわれとはたらきが「受けとれた」ということであります。
そのこころを親鸞聖人は『一念多念文意』に、


きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり(『註釈版聖典』六七八頁)


と述べられておられますように、聞というも信心というも同じことでありますから、「聞即信」といわれるのです。
また、聞も信も無疑心をもって語られているところに、「聞即信」の妙味がよく領解できることであります。
まことに、「たまわりたる信心」といわれ、「本願力回向の信心」といわれる浄土真宗の信心の特色がうなずかれることでしょう。
真宗 中央仏教学院 通信教育テキスト(一年次)P102 〜P105 執筆者:中西智海より】


【手品師コメント】
非常に分かり易く、説明されておられます。