『歎異抄』には、「念仏とはどういうものか」ということを折に触れて、繰り返し説かれています。第十条にも重要な説明があるので、見てみましょう。
念仏には、無義(むぎ)をもて義とす。不可称(ふかしょう)・不可説(ふかせつ)・不可思議(ふかしぎ)のゆへにと、おほせさふらひき。
(現代語訳)
「念仏を理解するためには、はからいを捨てることが道理に叶っているのです。そのわけは、念仏は私たちが量(はか)ることもできず、説明もできず、思いめぐらすこともできないものだからです」と法然上人はおっしゃいました。
最後の「おほせさふらひき」は、法然が言った言葉だという証拠です。この第十条の文章は、法然から親鸞が聞き、親鸞が唯円に伝えた、最も大事な言葉です。本願念仏の奥義と言ってもよいでしょう。
「無義」とは、自分の「はからい」を加えないこと。「義」とは、「本来の意味」ということです。念仏は、私たちの常識の延長で理解してはならない。念仏は、阿弥陀仏が私たちに与えた行為である。だから、念仏には自分の「はからい」を加えてはいけないのだ。これが、法然が親鸞に伝えた大事な言葉の意味です。
念仏するのは、まぎれもなく私たち人間ですが、念仏を与えてくれたのは、阿弥陀仏です。そういう意味では、念仏は阿弥陀仏の行為なのです。ここに、人間の常識を超えた念仏の不思議さの根拠があります。
【歎異抄にであう 阿満利麿 NHK出版 P53、P54より】
『念仏には、無義(むぎ)をもて義とす』という言葉について。
ここで「最も大事な言葉」といわれています。また、「本願念仏の奥義」ともいわれています。まさにその通りだと思います。「理屈なしに南無阿弥陀仏」というところでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏