手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

呼応する

 

阿弥陀さんが「南無阿弥陀仏」と称えよ!と、おっしゃられますので、

わたしは、「南無阿弥陀仏」と称えます。ただそれだけのことです。

至って自然なことであります~。そこに私の計らいなんぞ微塵もありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さまと私の距離

 

「阿弥陀さまは(私に)寄り添っておられます」という言葉をよく法話(浄土真宗)で聞きます。阿弥陀さまと私の間に距離はない、ということです。私が、そのことに気付かないだけなのです。

 

蓮如上人は、以下のようにいわれました。

「当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか」

(宝の山におりながら、その宝を手にしないことは「勿体ない」という言葉で済まされるものではありません)

 

また、浅原才市さんは、以下のような表現でいわれました。

「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」

 

お二方の言葉からも分かりますように、阿弥陀さまと私の間に距離はない、ということです。つまり、私は南無阿弥陀仏のはたらきの中で生きている、ということです。そのはたらきに気付かないで終える人生は、とても「もったいない」ことです。いかがでしょうか。今一度、蓮如上人、才市さんのこの言葉を反芻したいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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コミュニケーション 「人と人(私)」と「阿弥陀さまと私」の違い

 

   言葉を、コミュニケーションを取るための道具と考えるならば、言葉を発する側と、受け取る側がいることが前提となる。「伝わった」という状況は、この両者、つまり、話す側と聞く側や、書く側と読む側の共同作業によってもたされるのだ。

 とはいえ、聞く側や読む側といった受け取る相手の感じ方を変えることは難しい。

 親しい友人や同僚、家族間であれば、ツーカーの仲を築くことで、相手からの理解の歩み寄りを期待することができるかもしれない。

 しかしながら、通常の生活において、コミュニケーションを取るべき相手との関係性は多岐にわたっている。お互いに何の前提も共有できていない、初対面の人と意思疎通を図らなければならないことも多い。

 その意味では、伝わる精度を高めるために変えることができるのは、伝えようとする張本人である自分以外いないことは明らかであろう。

 「伝わった」「伝わっていない」という伝わり方のレベルを細分化して考えると、次のような段階に整理することができる。

 

① 不理解・誤解

そもそも話が伝わっていない、もしくは、内容が誤って伝わっている状態。伝えた側と伝えられた側に、認識のズレが生じている。実生活においては「言った、聞いてない」「聞いた、言っていない」といった問題として表面化することが多い。

 ② 理解

伝えた内容が、過不足なく伝わっている状態。相手が話したことをヌケモレなく正しく把握している。しかし、理解以上の解釈が行われているわけではなく、「頭では分かっているが、心がついていかない」といった状況にも陥りやすい。

 ③ 納得

相手が話したことを、頭で理解しただけでなく、内容が腹に落ちている状態。そのため、理解に比べ、自分ゴトとして捉えることができている。話を聞いている時に「なるほど」「確かに」といった感情を伴うことが多い。

 ④ 共感・共鳴

見聞きした内容を理解した上で、心が動かされ、自らの解釈が加わっている状態。相手の意見や感情などに「その通りだ」と感じ、自分なりの考えを加えたり、自分にもできることがないかと協力を申し出るといった行動を起こしたくなる。

 

 このように見てみると、理解まで至れば合格点ではあるものの、納得と共感・共鳴こそが、コミュニケーションの醍醐味であることが分かる。しかしながら、そのレベルにまでコミュニケーションを高めることがいかに難しいかは、あえて言うまでもないだろう。

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【言葉にできるは武器になる 梅田悟司 日本経済新聞出版社 P17~P20より】

 

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 今回紹介しました上記のコミュニケーションは、「人と人(私)」のコミュニケーションについて、わかりやすく説明されています。「①不理解・誤解 ②理解 ③納得 ④共感・共鳴」と段階的に提示しています。この場合(人と人の場合)、「納得と共感・共鳴」こそが、コミュニケーションの醍醐味である、とまとめています。私も同感です。

 では、「阿弥陀さまと私」のコミュニケーションは、いかがでしょうか。先の「①不理解・誤解 ②理解 ③納得 ④共感・共鳴」の ③納得 ④共感・共鳴はいかがでしょうか? 「人と人(私)」同様、コミュニケーションの醍醐味となるでしょうか? 残念ながら、いずれもコミュニケーションは成立しません。それは、いずれも「私の主観」が入っているからです。

 『阿弥陀さまと私』のコミュニケーションを語る上で、まずは、「(阿弥陀さまの)一方通行の仰せに(私は)ハイ!と応える」ことが大事である、と先人は教えてくれました。換言しますと、「阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに私が気付く」ことが先決である、ということです。その後の念仏(南無阿弥陀仏)は「報恩感謝の念仏」となり、(本当の意味で)阿弥陀さまとコミュニケーションがとれる身になるのでした。平たく言いますと、『念仏(南無阿弥陀仏)』を通して、阿弥陀さまと私は(言葉の)キャッチボールができる間柄になる、ということです。

 梯 實圓 師は、『念仏(南無阿弥陀仏)』について以下のようにも述べています。

『救われた人の念仏には、苦悩に沈む人間を救うて、生き生きとよみがえらせていく、如来の大悲の力が躍動しているからです。その仏徳が、有縁の人々をよび覚まし、教化していかれるのです。このように、本当に救われた人の念仏は、その人の思いを超えて、自身も仏徳によび覚まされ、有縁の人々に仏徳の尊さ、有り難さを思い知らせていきます。いわば阿弥陀如来は、信心の行者を拠点として、その仏恩報謝の念仏の声となって、大悲の救済活動を煩悩業苦(ぼんのうごっく)に示現されていくのだともいえましょう。』

【光をかかげて -蓮如上人とその教え- 梯 實圓 本願寺より】

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 ※下記リンク「念仏の躍動(梯 實圓 師 )」もどうぞ~

 

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気付き


 キリスト教徒は、私たちがまるで神から疎外されていたかのように、神との和解ということを語ります。
 真宗の信者なら「どんなに阿弥陀さんから逃げようとしても、阿弥陀さんはいつも付いてきていて、決して離れることはできません。逃げようとすればするほど、追いかけてきます」というでしょう。
 阿弥陀は常に私たちと共に、私たちの内に、私たちの周りにいます。というよりは、私たちがいつも阿弥陀の中にいるのです。ですから、阿弥陀から逃げたり、阿弥陀に抵抗したり、阿弥陀に対立したりすることはまったくできません。

 わたしゃ仁げます(逃げます)  あなたのまゑ(前)を
 仁げば仁げ(逃げるなら逃げよ)  なむあみだぶつ仁ゑれて(入れて)
 あるなむあみだぶ仁(南無阿弥陀に)つれられて
 みだ(弥陀)の上をど仁(浄土に)・仁げてゆく(逃げていく)

 仏教徒には阿弥陀との「和解」はない。彼等はただ、阿弥陀の中にいるのだから阿弥陀から離れることはできないという事実に気付くだけです。
 才市にはこの離れがたさが極めて明白です。
【真宗とは何か 鈴木大拙 法蔵館 佐藤平顕明(訳)P174、P175(才市と和解)より】

 

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「南無阿弥陀仏のはたらき」につつまれて生活している以上、(まずは)そのはたらきに気付かせていただくことが賢明です。その気付きによって、きっといままで知らなかった世界が開けることでしょう。安心という世界が。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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仏教は何のためにあるのか?

 

 驚きのないところには仏法は始まらないのだと思います。「このような世界があったのか」と、思ってもみないような世界、ものの見方があったと、こういう驚きです。 大谷大学にも大勢の学生がきていますが、その中で一番驚きが少ないのがお寺の長男です。僕もその一人ですが。こんなものだと始めから知っているのでしょうか。特に最近は「立派な住職になるためにここにきました」という学生が増えてきました。ある意味では良い心がけかも知れませんが、驚きのないままに仏教の勉強をするものですから、「今日はここを覚えました」となるのです。「このお経も読めるようになりました」と、テクニックになってしまうのですね。ですから、いつまでも自分を打つものとして響いてこないのです。これはなかなか厄介です。
 時々私も生徒を驚かす意味で、「立派な住職とは何か」と問うてみるのですが、答えは出ません。「ちゃんとお参りして、ちゃんと報恩講を勤めて」と言うので、「ちゃんと、とはどういう意味か」と問うと、やはり答えは出てきません。ある学生は、親にそのことを言ったのでしょう。次の日に電話がかかってきたことがあります。「うちの子がやっと寺を継ぐ気になって、大谷大学に行ったのに、なんということを言ってくれるのだ」ということでした。みんな大真面目です。不真面目ではありません。だから厄介なのです。大真面目に勉強をする。しかし、その勉強が驚きのないところでやりますと、やはり免許のため、資格のため、うまくお寺をやっていくためとなってしまいます。仏教が自分に語りかけられているものにはならないのです。

【大無量寿経講義  尊者阿難 座より起ち   一楽 真  響流書房より】

 

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 まずは、私の生死問題にケリをつける、そこが最も大事なところではないでしょうか。この文章を読んでいまして、以下、深川倫雄 師の言葉が思い出されます。
『譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる(佛力を談ず 深川倫雄 講話集P117〜P118 永田文昌堂 より)』
 仏教は何のためにあるのか、浄土真宗の教えは何のためにあるのか、しっかり見極めたいところです。まずは何をなすべきなのか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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孤独死

 

 最近、「孤独死」の報道をよく耳にします。ひとり暮らしの高齢者だけに限らず、中高年も例外ではないようです。その原因として、核家族化や近所付き合いの希薄がいわれています。実際、死んでいることに誰も気づかない、という事例が増えており社会問題にもなっています。

 一般的に、「孤独死」は不幸な死である、という人は多いでしょう、しかしながら、南無阿弥陀仏の教えからいいますと、そんなこと(死に様)は全く関係ありません。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、どんな死に方をしようとも、死んだら浄土なのです。いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏の身にならせていただくことが、なによりも優先されるべきことなのでした。

 死に様を気にするのもよいですが、その前に、私の生死問題に白黒つけることが大事なのではないでしょうか。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さまのはたらきに出会うか、出会わないか

 

何をもって行とするのか。つまり覚りに至る方法とは何かと言えば、それまでは釈尊の真似をすることだと阿難は考えていたのでしょう。でも全く違っていたのです。如来の徳を行じておられるその如来のお働きに出会うか出会わないかということが大問題だったのです。私の方から一歩一歩、思い描いた理想に近づいていくというのは覚りでもなんでもないのです。
【大無量寿経講義  尊者阿難 座より起ち   一楽 真  響流書房より】

 

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阿弥陀さまの「安心しなさい、あなたを必ず救いますよ!」という仰せに、わたしは、「はい、ありがとうございます!」とこたえるだけなのでした。仏さまにウソという言葉はありません。たのもしいことであり、ありがたいことであります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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