先日、ちょっとしたことが縁で、テレビの取材を受けました。収録時間は約3時間。実際、放送で使われた時間は45秒でした。エキスをギュッと凝縮した45秒ともいえます。とても貴重な経験でした。
「南無阿弥陀仏」の6文字には、阿弥陀さまの命がギュッと込められているのでした。今回の収録を通して、阿弥陀さまのことを思うのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
先日、ちょっとしたことが縁で、テレビの取材を受けました。収録時間は約3時間。実際、放送で使われた時間は45秒でした。エキスをギュッと凝縮した45秒ともいえます。とても貴重な経験でした。
「南無阿弥陀仏」の6文字には、阿弥陀さまの命がギュッと込められているのでした。今回の収録を通して、阿弥陀さまのことを思うのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
もとより仏教は、釈尊によって始まっています。釈尊はなぜ出家をされたのかといいますと、生老病死の苦悩から解放されて生きる者となりたいと、これが出発点です。この生老病死を苦悩として生きているのは、人間だけです。生まれて年を取り病気をえて死んでいくということを、なぜ苦悩として感じるのか。犬や猫などの人間以外の生き物は、生老病死に苦しみ悩むことはないでしょう。人間に生まれたがゆえに、年を取るのは嫌だ、病気になるのは嫌だ、死ぬのは嫌だと、苦しみ悩み迷いながら生きているのです。そのように苦悩するのは人間だけです。生老病死を苦悩と感じる基本は、私たちの日常生活の中でまん延しています。人間に生まれたがゆえに、人間だけがなぜこのように苦悩するのか。この苦悩を背負って生きなければならないのが、人間なのです。
【仏教における念仏成仏の教え 小川一乗 22世紀アート kindle版より】
人として生まれ、いまを生きている意味はなんでしょう?
ここでは、人間は生老病死を苦悩として生きている唯一の生き物とあります。個人的には、人は「言葉」を使って生きていることに注目しています。
阿弥陀さまは、そこに目を付けたのでしょう。『南無阿弥陀仏』という6文字の言葉に、阿弥陀さまの命を込められたのでした。いやぁ〜本当にすごい!
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
(掲示板) ほとけさまに圏外なし
この掲示板を投稿された住職によると自信作で、「以前、掲示板の言葉として投稿したら、翻訳して海外までシェアされていました」とのことです。
浄土真宗のお寺からの投稿ですから、阿弥陀仏の慈悲はどこにでも届いているということを表しているのでしょう。(略)
仏さまの慈悲はケータイ電波のように全く目に見えません。現在、多くの人々は見えているものだけを信用する傾向にありますが、目には見えないものを大切にする生き方をしたいものです。
【お寺の掲示板 江田智昭 新潮社 P65、P66より】
南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私としましては、そのはたらきを受信しますと、自然とお念仏(南無阿弥陀仏)がこぼれ出るのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
過去の「電波系」投稿(3つ)のリンクです~
「総序」に「聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ」(一三二頁)というお言葉があります。私が思ったら思っただけ間違うぞ、だからお前の考えを横に置いておけということです。人間の考えを捨てる訳にはいかないから、ちょっと横に置いておけ。教えを聞くときは自分の考えを横に置いて、仰せの言葉をスゥーと受け入れる。すると仰せの言葉が主体になる。
【季刊せいてん(梯實圓 師の言葉) 126号、P47、本願寺出版社より】
聞思して遅慮することなかれ
意味:(阿弥陀仏の)本願のいわれを聞きひらき、疑いためらってはならない。
「自分の考えをちょっと横に置く」 同感です!
自分まかせは、とんでもない方向にいってしまいます(笑)
阿弥陀さまにおまかせ、安心感抜群です~
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
2/18(日)追記です
2年前にも採り上げていました~
毎日新聞(朝刊) 2021年2月19日(金)付より
追記:毎日新聞(朝刊)2021年2月20日(土)より
訂正されなかったら、とんでもない誤解を生む内容です。なぜ、よりによって、この大事な部分を間違って掲載されてしまったのでしょうか。正直驚きました。伝える「だけの」場の「だけの」3文字があるか否かで全く違った意味になってしまいます。
「お寺は教義を伝える場ではなく」が本当でしたら、寺の存在意義はありません。
とりわけ、新型コロナウイルスの影響はデジタル化を加速させています。布教の手法も時代の流れに沿っていく必要があります。いかに時代の流れを敏感に察知して対応していくか。この記事を読んでいまして、浄土真宗の布教活動も臨機応変に変化していくことが大事だと思いました。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」をご存じですか。お釈迦様よりも先に六人の仏がおられて、お釈迦様が七番目。この七人全員に共通する教えとされています。次のような偈です。
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
「諸々の悪をなさず、様々な善を行い、心を清らかにする、これが仏の教えである」
初期仏典の『ダンマパダ』などに説かれています。この「七仏通戒偈」に関しては、中国の白居易(はくきょい)〈※七七二~八四六年、唐の詩人・『長恨歌』が有名〉と鳥窠道林(ちょうかどうりん)〈※七四一~八二四年、唐代の禅僧の有名なエピソードがあります。
鳥窠(鳥の巣)と呼ばれたお坊さんが中国にいました。木の上で座禅を組んでいました。
「おー危ないぞー」と白居易が叫んだら、「お前こそ危ないぞー」と返します。
白居易は木の上が危ないと言っているのですが、鳥窠道林は「お前の生き方はそれでいいのか」という意味で言っています。そして白居易が鳥窠道林に、仏の教えとはどのようなものなのかと聞きますと、この「七仏通戒偈」を口にしたそうです。白居易はすごくがっかりして、「そんなのは三歳の子供でも知っていることを、八十になっても実践できないじゃないか」と説くのです。
哲学者のロバート・フルガム〈※一九三七年~、米国の作家・哲学者〉の著書『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂漠で学んだ』を連想しますね。真理はいつもシンプルなんだ、でも実践できないだろ、というわけです。
【歎異抄 救いの言葉 釈撤宗 文藝春秋 P76,P77より】
「真理はシンプルだが、実践できない」という箇所に注目できます。頭で理解したつもりでも実益(浄土真宗でいえば「信心」)が伴わなければ、本当にわかった、本当に知らされた、ということにはなりません。
南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か、とてもシンプルです。シンプル過ぎて疑ってしまうのか、あるいは、わたしの自信やプライドが邪魔をしているのか、はたまた・・・。さてどうなのでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
出典:古城山荒村寺(曹洞宗)ブログ
https://www.kosonji.com/buddhismepisode/bep35.html
毎朝、朝刊のお悔やみ欄をチェックしています。名前が載らない日はありません。義兄の新聞購読の大きな理由は、知り合いが亡くなったことを見逃さないためと言います。毎朝、お悔やみ欄に目を通してから仕事に出かけるとのこと。亡くなった人の家族に漏れなく香典を届けることに気を配っています。人との付き合いも大変です(笑)。
お悔やみ欄に掲載される多くの人は高齢者ですが、先日は14歳の女の子の名前が目に留まりました。私より若い人の名前も普通に掲載されています。お悔やみ欄をみて、次は私の番だな、という思いは微塵もなく、いついつまでも生きていくつもりの私です。「私の死」においては傍観者なのです。これが現状なのでしょう。
そんな中、南無阿弥陀仏に出遇えている人は幸せ者です。いつ死んでも、どんな死に方をしても行き先は決まっているからです。根底に大安心がある生活ほど心強いことはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏