手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏

 

自分の意思で発しているように思っているお念仏(南無阿弥陀仏)。本当は、阿弥陀さまがわたしと一緒になって称えさせてくださるのでした。そのお念仏は、言葉となって、そして音声となって、わたしの耳に入ります。その繰り返しです。まさに、お念仏は私の(口と耳を通して)中で循環しているのでした。

「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」(原口針水)という言葉が心に響きます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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言ってみたいフレーズ!

 

この世へ生まれてきた、これを誕生という

お浄土へ生まれていく、これを往生という

私の中には死は存在しません

【お念仏とは 梯 實圓 師 御法話より】

 

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「私の中には死は存在しません」

このように言い切れる人は、生死を超えた世界を生きている人です。つまり、「南無阿弥陀仏の人」ともいえるでしょう。わたしも「私の中には死は存在しません!」と、堂々と言ってみたいものです(笑)。素晴らしい言葉といいますか、格好いい言葉です~。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「お念仏とは」梯 實圓 師(82分)

 

人生100年時代?!

 

 「人生100年」という言葉を聞いて、あなたは何を思いますか?頭に浮かぶ老後のイメージは人それぞれですが、多くの人は自分の寿命が長くなる気がして、ちょっと元気になるでしょう。

 しかし100歳とはあくまでも平均寿命のことです。おまけに2050年という遠い先を想定した数字にすぎません。(略)

 ところがよく調べてみると、私が100歳まで生きることができる、なんてまったく根拠がないと分かりました。なぜかといえば平均寿命というのは、その年に生まれた赤ん坊が、どれくらい生きるのかという寿命の平均を推測したものです。つまり赤ちゃんの平均「寿命」のことなのです。

 だから100歳というのは、2050年に生まれる赤ちゃんの余命であって、私やみなさんには、あてはまらないということになります。(略)

  前にも述べたように、私は人生100年という言葉にも、毎年1回発表される平均寿命にも、もう惑わされてはいけないと肝に銘じました。その数字の大きさに途方にくれたり、妙にうれしくなったりしたくない。なぜなら、私自身の人生にとって平均寿命も社会の長寿化にも直接には無関係だからです。私が何歳まで生きるのかは誰にも分らない。どんな専門家にも、もちろん自分にも。

 まず自分の「いま」をリアルに見つめることが必要なのであって、「人生100年」というキャッチフレーズに惑わされる必要はないのです。

【この先をどう生きるか  藤原智美 文芸春秋 P12、P13、P20より抜粋】

 

敬老の日(21日)を前に厚生労働省は15日、今年度中に100歳になる人は4万1802人で、過去最多を更新したと発表した。前年度に比べて4797人多く、4万人を超えるのは初めて。平均寿命が延びたことに加え、1920~21年当時の出生数が多いことが要因という。女性は3万6122人と86%を占め、男性は5680人

【読売新聞 2020年9月16日より】

 

日本の総人口数:12,581万人(2020年9月1日現在)

【総務省統計局 ※2020年9月23日公表より】

 

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 日本の総人口(1億2,581万人)の中で、100歳以上(約4.2万人)の割合は、0.03%とかなり少ない結果です。例えば、現在100歳の方において、同級生(学生時代の友人など)は、ほぼ全員亡くなっているでしょう。人生100年時代といわれますが、現状、人生100年を達成できる人はほんの一握りです。とりわけ、男性の100歳以上の割合は女性と比べて、約6分の1とさらに少ないです。

 それはさておきまして、たとえ100歳まで生きたとしても必ず死んでいかねばならない現実があります。死から逃げることはできません。誰もが頭ではわかっていることですが・・・・。

「南無阿弥陀仏」があって本当によかった~、と思う日々です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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念仏者 棟方志功

 

 福光町の生活になって、この辺りの町村には立派な真宗の寺が立ち並び、人々は熱心な真宗徒でした。そうした環境の中で板を彫り、他力本願の宗律の中の本妙というものを、身にも心にも受けました。(「私の履歴書」『わだばゴッホになる』 九四~九五)

 金色燦然とかがやく大仏壇があり、朝、夕、仏飯をそなえ、『正信偈』をとなえておまいりします。どの家も念仏の家であり、人々はみな熱心な真宗教徒でした。(『板極道』 九二)

 真宗門徒の生活に囲まれて制作することによって、他力本願の教えの本質が身にも心にもしみこんでくる。これこそ芸術的聞法である。棟方は富山の土徳にふれてその画境を世界的なものに昇華させたのだといえる。

【妙好人 棟方志功  太田浩史  響流書房より】

 

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 戦時中、棟方志功一家は、戦禍を避けるべく富山県福光(現在の富山県砺波市)に疎開しました。棟方にとって、この福光における6年8ヶ月の念仏に囲まれた生活は、彼の人生において忘れることができない期間となったことでしょう。「南無阿弥陀仏」に出遇う大きな縁となったのですから。

下記にリンク(棟方志功 関連の投稿)を貼っておきます。

 

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tarou310.hatenablog.com

 

tarou310.hatenablog.com

今が、目的の中

 

お念仏は目的であるという事ですよ。私どもの、ただ今が、目的の中にいるという事であります。我々の御法義は何かのためではなくて、今が目的の中なんだということであります。だから、わけが分からんようになる。お互いに青年時代にね、人生の目的は何かなんちゅうて議論したことがある。そんな事は議論にならんのですよ、人生が目的なんだから。そうでしょ、目的の中にいてねえ、目的を求めるというのはない。

【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

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人生の目的といいますと、ゴールに向かって努力して頑張る、と捉えるのが一般的です。人生、生きていく上でゴールを設定して頑張ることは素晴らしいことです。ただし、南無阿弥陀仏の救い、には当てはまりません。ここでは、「私どもは、ただ今が、目的の中にいる」といわれています。つまり、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくか否か、ということです。浄土真宗の教えに、人生の目的という言葉は馴染みません。

おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さま視点で

 

 私共の御法義は仏様の話であります。裏から言えば人間の話ではありません。だけども私共は人間同志の交際をし、自分も人間であるから、人間の話にしたくなってしまう。そして、人間の考えで解釈をしようとする。それではいけませんな。仏様の話だから、私共の頭には入りにくいわけです。だけども、仏様のお力で、私共は何時かこの御法義が楽しめる日が来るわけですよ。

  そこで、仏様の話だから、なるべくね、仏様の側で御法義を語る方がよろしい。私どもの側で語らないわけではないけれども、私どもの側で語っておると間違うて来る。

【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

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私が、私が、と私に固執する気持ちを、ちょっと置いておきまして、阿弥陀さまはどういうスタンスなのか、と広い視点で考えてみるのもよいですね。なにか気付きがあるかもしれません。相手の立場に立って物事を考えたり思ったりすることは、日常生活においても、とても大事なことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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念仏の実践

 

念仏の実践というのは、阿弥陀様が私を救うと私に呼び掛けて下さるから、阿弥陀様の真正面に立って、阿弥陀様の仰せをうけたまわって行くということであります。そうするとね、阿弥陀様の話になってくるわけです。

【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

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阿弥陀さまの「あなたを救う」という呼びかけに、私は「ありがとうございます」と応える。そこに、本来の阿弥陀さまと私の関係が成立します。「南無阿弥陀仏」というお念仏をもってして。そうなると、阿弥陀さまの話になってくるのでした。

おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏

 

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