手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

馬が念仏聞くような聞き方

 

 お聴聞するお説教は、仏様のお話です。だからお説教を聞いてもよう解らんのです。なぜかというと、人間の話で出来ておる頭で仏様の話を聞くんだから、解らんのですね。馬が念仏を聞く様なもんですね。馬が念仏聞く様な聞き方が一番良い聞き方です。ところが日本では「馬の耳に念仏」ちゅうて、話の聞き方が悪いときにいいますね。ですからあの言葉を使う人は皆間違うてると私は思うとる。「馬の耳に念仏」の様にお説教は聞いときさえすればええんです。あんまり考えたらいけません。なぜかちゅうと、考える頭は人間のことしか考えん頭、聞こえてくるお説教は仏様のお話。
         (略)

 仏様のお話というのも、二色ある。いま、二色のどっちかと言うと、両方であります。お釈迦様という仏様がなさる、阿弥陀様という仏様の話です。仏様の話ですから、あんまり一生懸命聞かん方がいいです。聞いたって解らんのだから。聞いても解らんのならつまらんちゅうて、私のところの仏教青年会がいつも文句を言うんです。「解らん話を聞いてもつまらんじゃないか」と言う。それが人間のせめてもの理屈なんだよ。仏様はね、解らん話を聞かせてお助け下さるんだよ。だから、解ったとか解らんとか言うのが、もう人間の話でしょう。仏様は、解ったとか解らんとか言いなさらんのだから。仏様は、お説教の口に乗って、届いて私に聞かれて下さるだけですけど、聞いた人間が勝手に、解った解らんという。解った解らんちゅうのは、もう人間の話でござんすからね。それは仏様の話ではありません。お釈迦様という仏様がなさって下さった、阿弥陀様という仏様の話であります。それが浄土真宗であります。

【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

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私の思いや考えを阿弥陀さまにぶつけてみたところで何の意味もありません。そもそも私には、そんな力があるはずもなく。どれだけ頭をコネクリ回して、阿弥陀さまのことを考えてみても何の解決もありません。ただ空回りです。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と受けとらせて頂くだけなのです。受けとるといいましても、南無阿弥陀仏は何かのモノではありません。はたらきです。ですので、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきを(私は)知らされた、(私は)気付かされた、という表現がしっくりします。阿弥陀さまと私を繋ぐ言葉。それが南無阿弥陀仏なのです。阿弥陀さまと会話できるなんて本当にありがたいことです。そして、根底に安心があることが何よりです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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南無阿弥陀仏は躍動している

 

受ける言葉は形容詞か動詞であって、名詞であってはならない。

【むすび・言葉について30章  中村 稔 青土社 P5より】

 

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 「南無阿弥陀仏」視点からみますと、南無阿弥陀仏は単なる単語(名詞)ではありません。南無阿弥陀仏には、はたらきがあります。

  梯 實圓 師は、「救われた人の念仏には、苦悩に沈む人間を救うて、生き生きとよみがえらせていく、如来の大悲の力が躍動している」といわれました。つまり、南無阿弥陀仏は(単なる)名詞なんかではなく、形容詞や動詞ということです。南無阿弥陀仏は躍動している、のです。この「躍動している」という言葉は、私の中で、とても印象に残っています。「南無阿弥陀仏」を語る上で、とても分かりやすい表現だと思います。

 

tarou310.hatenablog.com

 

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「南無阿弥陀仏」という言葉

 

 最近、時事川柳を始めました。5・7・5の17文字の中に、最近話題の出来事をおさめる作業がおもしろいです。その内容(込められた意味)は、原稿用紙1枚程度で説明できます(笑)。

 「南無阿弥陀仏」の6文字には、阿弥陀さまの五劫の思惟と兆載永劫という修行、つまり阿弥陀さまの命が込められています。その背景といいますか内容は、とても説明し尽くすことはできません。ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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逆対応

 

よう聞いたら助かるいうたら、助かる事を予想して聞いとるんですからね、聞いたら仏さんがやってくる事になるね。それで、信じたら助かる、祈ったら助かる、皆こう両方が向い合せになっとる。こういう関係を対応的というんです。こういうのは、仏法ではないんです。そこでね、逆対応というたらどうかというと、わしの側では、救いの法に背を向けとるんです。ところが、仏さんの方からは、逃げとるわしのところまで、何時でも先に来て下さっとるという、この関係が逆対応いうことなんです。

  【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

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南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私としましては、そのはたらきに気付かされるか否か、のいずれかです。あまりにシンプルすぎて難しいのかもしれません。阿弥陀さまに、私の計らいや思いをぶつけても意味はありません。浄土真宗は、~したら、~すれば、助かるという教えではありません。ここでは、「逆対応」という言葉で説明されています。

おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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与えられる立場に感謝

 

 「施せる立場であることに感謝しなさい」と、よくいわれます。辞書によりますと、『施す』とは、「恵まれない人に物質的な援助を与える。あわれみの気持ちで、人が困っている状態を助けるような行為をする」とあります。

 南無阿弥陀仏も同じです。(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ、この世の縁が尽きて浄土に生まれ、すぐさま、この世に戻って来て、迷っている多くの人に、南無阿弥陀仏となってはたらきかける。いま、そんな立場にならせてもらえている私は幸せ者なのです。

 おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏

 

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まずは縁ある衆生

 

 (歎異抄)第五条には、「まづ有縁(うえん)を度(ど)すべきなり」とも述べられています。これは、浄土に往生して悟りを開いたなら、まず縁のある家族や縁者や仲間から救っていけばよいという意味です。仏になるので最終的にはすべての人を救うのですが、まずは縁のある人からでよいですよね。

 改めて考えてみますと、仏教は壮大な生命のストーリーを私たちに提示してくれます。息を引き取った瞬間にその人が終わるわけではなく、浄土に往生する。死をも超えて続く道を歩み始めるのです。そして仏となってこの世に戻り、まずは縁ある人から救い、ついにはすべての人を救うのだ ―― と。

【歎異抄 仏にわが身をゆだねよ  釈 徹宗 NHK出版  P32、P33より】

 

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 死ねば、誰もが浄土に往生するのではありません。いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人でなければ、(死ねば、)また迷いの世界に逆戻りです。ここは、とても大事なところですので抑えておきたいです。

 この歎異抄第5条の「まづ有縁(うえん)を度(ど)すべきなり」という言葉に触れますと、いままで、お世話になった多くのひとの顔が浮かびます。最近亡くなった愛犬も然り。いま、こういう立場になっていることに感謝すると共に、(この世の縁が尽きて)先人と一緒に南無阿弥陀仏となってはたらきかけられる身になれたことに喜びを感じます。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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海へ   🌺金子みすゞ(8)

 

祖父(じい)さも海へ、

父(とと)さも海へ、

兄(あに)さも梅へ、

みんなみんな海へ。

 

海のむかうは

よいところだよ、

みんな行ったきり

帰りやしない。

 

おいらも早く

大人になって、

やっぱり海へ

ゆくんだよ。

【金子みすゞ大全集–生誕100年記念–(朗読CD)第三巻より】

 

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ここで、「海」は、「浄土」のことをいっているのではないでしょうか。だれもが、遅かれ早かれ、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ、この世の縁が終えれば、お浄土へ生まれます。そして、すぐさま、この世に戻って、南無阿弥陀仏となって、はたらきます。つまり、南無阿弥陀仏となって帰って来るのでした。ありがたいことです~。

 

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