手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

昭和のスター

 

  時間(とき)の流れは早いもので、時代を謳歌した昭和のスターの多くもこの世を去っていきました。
 昭和22年に平均寿命は50歳を越え、いまや、人生100年時代といわれています。平均寿命は延びましたが、遅かれ早かれ、死は必ずやってくることに変わりはありません。
  あらためまして、人生、南無阿弥陀仏しかないなぁ〜、と思うこの頃です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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南無阿弥陀仏のはたらき

 

道端に、1万円札が落ちていたらどうしますか?
拾わない人は、お金が落ちていることに気付かないか、お金の価値が分からないか、お馬鹿さんか、のいずれかでしょう。
では、いま・ここで・私に、はたらいている「南無阿弥陀仏のはたらき」においてはいかがでしょうか?!

 

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他力には義なきを義とす

 

  (親鸞)聖人が「他力といふは如来の本願力なり」(「行文類」『註釈版聖典』一九〇頁)と言われたときの「他力」は、阿弥陀仏の「本願力」、すなわち、衆生に教、行、信、証を回向して救済する「阿弥陀仏の利他のはたらき」だけを表す言葉として使われたわけです。それを、法然聖人は「他力には義なきを義とす」(人間のはからいをまじえないことが他力の正しい領解である)といい、親鸞聖人は、それを本願力回向とも他力回向ともいい表されたのでした。
  「私どもが救われるのに、私のはからいは一切無用である。私の往生の因も果も、すべて如来の本願のはたらきとして恵み与えくださるからである」と、言い切っていかれたのでした。
【平等への視座 ー対談・歴史的課題と教団ー  梯實圓、上山大峻  本願寺出版社 P108より】

 

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私側からいえば、阿弥陀仏さまにただただおまかせとなります。ここであります「他力の正しい領解」をしっかりしたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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阿弥陀さまの救い

救いということは、如来さまのおおせを「まこと」と受け容れて、「おおせのとおりにお浄土へ生まれさせていただきます、ありがとうございます」と念仏を申し、少しずつ自分の心がけを教えに順って、軌道修正していくことを言うのでしょう。如来さまのおおせがまことであると疑いなく受け容れる信心は、一瞬にして開けます。その教えが、生活の上に反映して行動を改めていくということになりますと、時間がかかります。先に、親鸞聖人の『御消息』のお話をしたときにも申しあげましたが、「ようよう少しずつ」と言われたように、少しずつ変革が進んでいくわけです。急激にぱっと変わるわけではありません。少しずつですね。
【平等への視座-対談・歴史的課題と教団- 梯實圓・上山大峻 P104より】

 

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ここでは、「阿弥陀さまの救いに出遇った」つまり、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた」後の生活について述べられています。私生活において、徐々ではあるが変革が進む、と教えていただきました。どういう変革かといいますと「浄土真宗の教えが生活上に反映して行動を改めていく」とあります。「少しずつ変革が進む」梯實圓 師も実感されてのお言葉ですね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「仏教を学ぶ」と「仏教に学ぶ」の違い

   一般的に言う「仏教学ぶ」というのは、自分が仏教の勉強をして物知りになっていくことです。「仏教学ぶ」は、字面の通り、学ぶことの目的が仏教であるということです。では、「仏教学ぶ」は仏教に何を学ぶのでしょうか。
 私たちは、日常生活の中で鏡を見ます。朝起きて、歯を磨くときに鏡を見て、服を着るときにも見て、出かける前にももう一回くらい見ます。もっと見る人もいるでしょう。一日に一度も鏡を見ない人は、そうはいないでしょう。私たちは何度も鏡を見ますが、この鏡は丸いなとか、この鏡は四角いなとか、そういうことを見ているのでしょうか。「鏡を見る」と言いますが、見ているのは鏡そのものではなくて、そこに映った自分の顔です。私たちが毎日しているのは「鏡映る自分の顔を見ている」のです。知りたいのは自分であって、鏡は映れば何でもいいのです。ですから、正しい意味では、「鏡自分を見る」です。
【暮らしの中に仏教を見つける 織田顕祐 法蔵館 P39,P40より】

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「仏教学ぶ」と「仏教学ぶ」では、意味が全く違います。「」が「」と一文字変わるだけで仏教に対する姿勢が180度変わります。「上から目線の立場」から「謙虚な姿勢」へと。「仏教学ぶ」というスタンスでありたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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「仏教の生活化」と「生活の仏教化」の違い

 『維摩経』という大乗経典に、「高原の陸地には蓮華を生せず、卑湿の淤泥に乃ち此の葉を生ず」という喩えがある。煩悩にまみれた日常生活の中にこそ仏法の花が開くのだ、という意味である。私は、大学で仏教を少し学んだころ、「どうやったら仏教を日常生活に活かすことができるのか」と考えていた。それで機会あるごとに自分が学んだことをできるだけ優しい言葉で話そうと努力していたが、結局は「それはよかったですね」という反応以上のものに出会うことはなかった。大学の教室では、学生からあからさまな拒否の反応を受けることも多かった。そんなある時、先輩の先生から「仏教の生活化と生活の仏教化は同じか違うか?」という問いを受けた。私はそのとき、その先生の言いたいことがよくわからなかったが、先生は「前者はほとけさんの仕事、後者は人間の仕事」だと言われた
 今では、先の『維摩経』の喩えは、まさしく生活の仏教化を意味していると思っている。
【暮らしの中に仏教を見つける 小田顕祐 法蔵館 P96より】

 

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「仏教の生活化は、ほとけさんの仕事」「生活の仏教化は、人間の仕事」
⇒なるほどなあ~、と思いました。
「阿弥陀さま」と「南無阿弥陀仏のはたらきを知らされた人」による「南無阿弥陀仏」のご教化です。いずれにしましても、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきです。この(手品師)ブログが、「生活の仏教化」の一助となればうれしいです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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